【第422回】 合気道は科学

合気道は技を練磨して精進していくわけだが、稽古を長く続けていけばよいということにはならない。合気の道に則った稽古をしなければならないのである。

しかし、合気の道は見えないし、誰かがこれがそうだと示してくれるものでもない。ただ開祖がいろいろな言葉で残されているので、それを基に修行していくしかないだろう。

開祖は、合気道を上達するためには、合気の道は科学の実践である、ということを肝に銘じた稽古をしなければならない、といわれている。曰く、「合気は天の科学である。精神科学の実践を表しているのである」

つまり、天の科学とは「一元のスは生長してウ声と充たし、ウ声は遂にみたまを両分して物のもとと、霊のもとが生まれた。これが科学のはじまりなのです」ということである。一元の大御神から二元(魂と魄の元)が生まれ、そこから万有万物が派生してきたわけである。これは、科学であるといってよいだろう。

精神科学の実践とは「真空の気と空の気を、性と業とに結び合わせ、喰い入り乍ら技の上に科学を以て錬磨する修業」ということであろう。体力養成ではなく、魂を魄の上にし、宇宙の営みと一体化すべく、科学しながら練磨していかなければならない、というのである。

合気道で練磨する技は、宇宙の条理・法則に則っているので、技の練磨は宇宙の法則を発見し、検証し、身につけるという科学でなければならない。これは、ひとりの人とか、特定の人だけできるということではなく、万人にできるはずのものである。なぜなら、技には法則性があるから、それを身につければ誰にでもできるわけである。ゆえに、合気道は科学ということになるし、合気道は科学しなければならないことになる。

この他にも開祖は、技は科学しなければならない、と次のようにもいわれている。

科学するということは、法則性を求めることであると考える。なお、「科学」という語は、明治時代、啓蒙家の西周(にしあまね)によってscienceの訳語として作られた造語で、多くの専門(=科)に分かれた学問(=学)の総称であるといわれている。

技は科学であるから、技をつかう身体も科学的につかわなければならないことになる。つまり、体づかいも法則性を持っていなければならない、ということである。さらに、息づかいも科学化しなければならないし、心もそのはずである。

例えば、合気道は愛であり、愛気道ともいわれるが、これを実感したり、理解するためには、万有万物は一元の大御神につながった家族である、という科学が分からなければならない。

愛、心、体、体づかい、技、これらを科学するのが合気道、ということになろう。合気道は科学でなければならない。