【第419回】 無抵抗主義

開祖は剣で打たれようと、杖で突かれようと、どうつかまれようと、得物に触れることなく、相手に抑え込まれることもなく、相手をくっつけてしまわれたり、相手の力を抜いてしまわれた。相手がどんなに力を込めても、力が入らず、思うままに技をかけられてしまうのである。

どうしてこのようなことができるか、開祖はよく次のように話されていた。
合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにあり、その極意を会得すると、宇宙が腹中にあり、「我は即ち宇宙」になる。そうなると、どんな敵にも敗れなくなる。なぜかというと、相手は「宇宙そのものである私」の宇宙との調和を破ろうしているからである、というのである。

また、合気道は無抵抗主義であり、無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ、ともいわれていた。

当時は摩訶不思議で、また、これが合気道の魅力であったのだが、深く考える余裕も能力もなく、このようなことは無視したかたちで稽古してきた。だが、現在では、開祖がいわれている宇宙の調和を破るものは破れる、合気道は無抵抗主義である、などを、次のようなことでも体験できるのではないかと考える。

例えば、坐技呼吸法で相手がつかんでいる手でこちらを押してきたとき、こちらが相手と結んだまま無抵抗でいると、相手が力を込めれば込めるほど自ら浮き上がってくるのである。

また、相手がこちらの手を少しでも引くと、これも自ら浮き上がってくるのである。これは、自分から力を込めて、そのため調和を乱したことになるから、ということになるだろう。

もし相手の力に抵抗したりすると、相手はますます強くなり、力を込めてくるので、こちらが潰されたり、抑えられたりして、動けなくなり、争いになってしまう。

相対で技の練磨の稽古をしているわけだから、受けを取る方は、先ず攻撃をする役割なので、できるだけその役割を果たすべきである。技をかける取りの方は、よく調和を乱してくれたと感謝し、しかもそれと争わないように、無抵抗主義で処理しなければならない。

しかし、この無抵抗、無抵抗主義が難しい。相手が力いっぱい押したり引いたりしてくると、どうしても抵抗しようとするのが人の性だからである。まず、心が「何を小癪な」と反抗し、体も負けじとばかり反抗する。

無抵抗、無抵抗主義とは、何もしないでぼうっとしていることではない。相手に関係なく、相手のやってくることに関係なく、やるべきことをやることである。

例えば、坐技呼吸法の場合では、手先と腰を結び、手を伸ばし、息を出しながら、相手につかませ、相手と結ぶ。相手との接点を、押しも引きもせず、上げも降ろしもしない、天之浮橋の状態にする。これが、無抵抗状態であろう。あとは、相手が押そうが引こうが、どう来ようとも、自分から浮き上がってくるはずである。相手が力を入れれば入れるほど、浮き上がってくるのである。

坐技呼吸法で無抵抗主義ができるようになれば、立ち技での呼吸法(片手取り、諸手取り)、太刀さばき、入身投げなど、基本技を稽古していくのがよいだろう。