【第404回】 力から心の合気へ  〜魄から魂へ〜

合気道は相対で技をかけ合いながら稽古するが、どうしても相手を倒そう、倒さなければならない、と思って技をかけてしまう。そうすると、力に頼ることになる。そして、さらにその力に頼っていくことになる。

体力や腕力がつくうちは、どんどんつけていけばよい。ある程度の体力や腕力はなければならないと思う。しかし、年を取ってくると、自分の力の限界を感じてくると共に、技を力に頼る限界も知るようになる。

そう感じるようになったきっかけは、年齢もあるが、合気道の稽古は相手を倒すためにやっているのではない、ということが分かってくることである。技の練磨は相手を倒すのが目的ではない、ということである。これは、柔術や他の武道などと大きく違う点である。

しかし、技をかけて、相手が倒れなくてもよい、ということではない。技をかけたら、相手が倒れなければ、技が効いた事にはならないし、武道ではなくなってしまう。技をかけて、相手を倒すのではなく、相手が倒れるのである。このパラドックスを解くことこそ、力にだけ頼っては駄目だと、ということを覚らせてくれるはずである。

合気道の技は、技をかけたら、相手が自ら納得し、喜んで倒れるようになる、ということになる。

受けの相手の体を力で攻めると、相手は反発してくる。体力や腕力で勝っていれば、力でねじ伏せることもできるのだが、それでも相手は“おのれ小癪な、その内に倍返しをしてやるぞ”と思うだろう。これは、争いの基である。

相手の技に納得したり、反発したりするのは、心である。体がいじめられると、心が反発して、倒れないように体に指示するのである。

受けの相手が技をかけられて倒れるには、条件がある

  1. 受けの心が納得してくれること
  2. そのためには、受けの体が無理なく、理に合って動くように導くこと
  3. 技をかける本人も、無理なく、理合で動かなければならない
  4. それには、開祖がいわれているように、天の気、天地の呼吸に合わせた動き、呼吸で技をかけなければならない
技は、相手を心で導いてかける。相手の心を納得させ、相手の心を導く。それまでの力のぶつかり合いではなく、相手の体重が消滅してしまう、摩訶不思議なものになっていくのである。これが、腕力や体力の魄から、心の魂への合気の導入部ではないかと考える。

しかし、さらに稽古を進めていくと、心を超越したものが働いていることが分かってくる。心は、好き嫌いがあったり、時や場所で気まぐれなものであるが、それらとは関係のない絶対的なモノに納得し、それを心と体に指示を与え、体と心を導いているように思える。

それは、宇宙と人や、技をかける者と受けを取る者を結んでいる魂ではないか、と考える。つまり、技は相手の体ではなく、心に、そして魂に、かけるのである。

これによって、魄から魂へと重点が移り、そして魄が土台になって、魂が表になる合気道、となっていくのではないだろうか。