【第40回】 合気

合気道を文字の上から解釈すれば、合気を探求する道ということになるが、この合気というものがはっきりしない。合気という言葉は柔術の時代から使われていたし、古伝書には「相気」(相手の気に合わせる)という言葉も使われているので、合気道の専売特許でもないが、しかし合気道における「合気」はこれまでの他武道や武術などでの意味合いとは異なっているようだ。

開祖は「合気」ということを道歌や『武産合気』『合気真髄』に残されている。例えば、
〇「合気はことに、五代七代の神々のみ働きが根源となり、そこより生み出てくるのです」
〇「十字つまり合気である」
〇「合気は伊都能売の現れである」
〇「合気は人の本能たる引力によって人を通じて宇宙の妙精と一つになって科学しながら業が生まれてくる」
〇「米糠三合持てる力があれば合気はできる」
〇「合気は、全神代からの歴史を、その活躍の霊営を悉く身心に吸収し、胎蔵させて頂いて、営みの世界たる万有万真、森羅万象に至るまでの現れのごみいずの大気を胎蔵して、授けられた本能によって、神代にさかのぼり又天下の造化の歴史を未来に及ぼし、古も未来も一身に胎蔵して、その智(ひかり)によって技を湧出するものである」

合気道での合気は従来の武道を超絶した概念として意味付けがなされている。また、幾つかの段階、異なる次元があるようだ。

まず、合気は相手と気を合わせ、体を合わせることであろう。これで二つの物体が一つになり、一個のものとして動けるようになる。これを合気道ではむすびといい、また、合気道は引力の養成であるというのであろう。

次の段階の「合気」では、相手の防御本能を刺激して、本能的な無意識の動きを引き出し、相手の意志とは関係なく相手を自由にしてしまう。

更なる段階では、宇宙の精妙と一つとなって技を生み出すことであろう。

いずれにしても、「合気」の理解なくして合気道を稽古しても合気道の本当の力は出てこないだろうと思うので、「合気」をもっともっと探求すべきであろう。