【第397回】 魂魄の結合の武

合気道は、武道である。武道とは、「戈(ほこ)を止める」ことを探求していく道であり、宇宙楽天への邪魔ものを取り除いていく修行の道である。

この宇宙の生成化育のお手伝いをするわけだから、武を志すものはそれを理解するとともに、武の実行のために、魂魄を十分鍛えなければならないであろう。

開祖が修行されていた頃の武術とは、敵をいかに制するかを追究する命をかけた武であり、体力、腕力、魄力の魄の武であった、とされている。開祖はこれを、その魄の武を土台にして、魄の世界を魂の世界にふりかえなければならない、といわれたのである。

だから、開祖は、魄は駄目だ、などとはいわれていない。魄を土台にしなさい、といわれているのだから、魄力もなければならないわけである。ただ、魄が下になり、魂が上、表にならなければならない、といわれているだけなのである。

開祖は、武の本義は魂魄の結合である、といわれている。このことは以前から何度も挑戦してもなかなかよく分らないことなのだが、開祖の新しい文に出会ったので、まずは結合しなければならないというこの魂魄の解釈に、また挑戦してみよう。

開祖の『合気真髄』には、「地球のことは、つまりイザナギの大神のことであり、その地球の魂というのはイザナミの大神であろうと存ずる次第である」、また、「魄というのは、いつも話しているように物の霊を魄というのである。魄と自分の身の内、すなわち魂のことである」とも書いてある。

この二つの文章から、

ということになる。

これを人に置き換えれば、 ということになるだろう。

まず物の霊であるが、人体には霊があって、肉体を動かしているということだろう。もし、肉体だけで霊がなければ、死体ということになるから、武の結合の対象にはならないことになる。従って、この肉体の霊が魄力を生みだすのだろう。

魄力を身につけるためには、肉体を鍛えることだろう。魄は重要である。開祖は「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。」ともいわれているのである。

この魄を土台にして、魂の世界にふりかえるのである。魂は、イザナギの大神の地球(見える物)であるのに対して、地球の見えないモノ、地球を生成化育に導いているモノ、ということになる。また、この魂は、宇宙の一元の大神様の宇宙生成化育の魂と結びついているはずである。

つまり、魂とは人間を離れた宇宙の意志(人の本能とも思える)である、ということになるのではないだろうか。自分の霊体を、自分の心や精神を超越して、宇宙の意志、宇宙の条理に則って機能するようにする、ということであろう。

この魂を身につけていくためには、「宇宙組織の魂のひびきを神習わなければならいない」といわれている。宇宙に学び、自己の体内に宇宙組織を、正しく造りあげていく、というのである。

武の本義とは、魄と魂を養成し、それを結合していくことであろう。
「武道は、霊魂を守り、魄の世も守り、魂魄調和のとれたアウンの呼吸をもって、すべての生成化育の道を悉く守り、栄の道を愛育することの競争である。」
修行の先は、まだまだ続く。