【第396回】 魂と技

合気道は技をかけ合ったり、受けを取り合ったりして、技の練磨をしていくが、技はなかなか思うようにかからないものである。技がかからない、効かない理由は多くあるが、理由の主なものは、力(呼吸力)不足、合気の体(筋肉・関節・内臓)ができてない、技の法則が身に付いてない、合気道が目指すものが分ってない、等などであろう。

技が効くようになるためには、上記のものを会得していかなければならないわけだが、第3番目までのことは以前に説明したので、今回は残りの「合気道が目指すもの」について書いてみる。

つまり、合気道の目指すものがわかれば、技が効くようになる、ということである。それにも数多くあるが、今回はその内の「合気道は魂の学びである」を考えてみたいと思う。

まず、この学ぶべく「魂」を考えてみる。人には魂と心があるようだが、魂は心とは違う。心は「女心と秋の空」などと言われるように、日々刻々変わるものであるが、魂は「三つ子の魂百まで」といわれるように、死ぬまで変わらない人間の本質であるだろう。

開祖は、この魂(魂の気)で自己の身体を自在に使わなければならない、といわれている。つまり、魂によって身体(魄)を動かさなければならないわけである。また、開祖は、魂ですべてを結んでいかなければならない、ともいわれている。

魂の本質や役割は何となく分ったわけだが、それで技が効くようにするためには、この魂の学びをどうすればよいか、が問題であろう。

受けの相手に技をかける時には、初心者ほど相手の体の末端を攻めがちである。それでは、二教でも、三教でも、小手返しでも、手先は痛くなっても、体全体が崩れないので、かえって相手にがんばられてしまうである。

上手になってくると、手先を抑えることによって、体全体を崩せるようになってくる。だが、受けの相手はそれでも今一つ満足しないで、物足りなさを感じることだろう。

それは、技を手や体に対してかけているからである。魄の力で魄に対しているため、受けの相手は100%納得はできないだろう。

それ故、技は魂にかけるようにしなければならない、と考える。魂は各人が持っていて、その身体を動かすはずだから、受けの魂に技をかければ、その魂で受けの体が動き、崩れることになるはずである。魂は結ぶ力もあるから、相手と一体となり、そして、相手の身体を動かしてくれるわけである。

摩訶不思議ではあるが、魂は確かに身体(魄)を制御している。逆に、受けの身体(魄)をこちらの魄で攻めると、相手の魂が反抗して、身体に「がんばれ」の支持を出すようである。

開祖は「人の身の内には天地の真理が宿されている。人というと万古不易の真理が宿らぬ者はなく、それは人の生命に秘められているのである。本性のなかに真理が宿っている」(合気真髄)といわれている。

天皇陛下の料理人で有名な秋山徳蔵は、食は舌や胃のためでなく、魂を満足させるものである、といっていたという。(NHKテレビ「天皇の料理番」)凡人はどうしても目先のことや末端のことに惑わされてしまう、という戒めであろう。

力(呼吸力)を身体に満たしながら、その力に頼らず、「魂」で技を、相手の手や身体ではなく、相手の「魂」にかけ、そして、相手が気持ちよく、自ら倒れてくれれば、「魂」で技をかけたことになり、魂の学びをしていることになるのではないか。

これを魂の学びのきっかけにし、そして、宇宙組織のタマのひびきと結んだ魂の学びができるようになると、宇宙との一体に近づくようになるのではないか、と考える。そうなれば、「魂」の正体もはっきりしてくるだろう。