【第393回】 真空の気、空の気、気

開祖は「気」という言葉を大事にし、また、頻繁に使用されていた。『合気真髄』では数え切れないほどの個所で、「気」を説明されている。もちろん「合気道」という名前の中にも、「気」が入っている。

「気」はそれだけ大事であるわけだが、開祖は「合気は十分気を知らねばならない」「気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ」「気は力の本であるから、最初は充分に気を練っていただきたい」などと、「気」を知り、「気」を十分に練らなければならない、といわれている。

しかしながら、この「気」がどういうものであるかが、よく分らないのである。開祖は説明して下さってはいるのだが、我々凡人にはそれもよく分らないのだ。

合気道で分るということは、それを技で示すことができ、できた事を説明し、再現できることである、と考える。本来ならば、「気」をはじめから自分で考え、試行錯誤しながら、「気」とは何かを見つけ、身につけていかなければならないわけである。だが、ありがたい事に開祖がやって下さっており、会得されたことを書き遺されている。従って、我々後進達は開祖の残された文章を理解し、それを技に取り入れていけばよい事になる。

しかし、誰もが知る通り、「気」を開祖の文章から理解するのは容易ではない。だが、理解が難しいし、技に結びつけることなど無理だからと、「気」から逃げていては、真の合気道、開祖が求められていた合気道にはならないだろう。だから、無理にでもやるしかないと考える。何しろ教範はあるわけだから、それに従っていけば、大きい間違いはないだろう。

「真空の気と、空の気を性と技とに結び合いて、練磨し技の上に科学しながら、神変万化の技を生みだすのであります」(「合気真髄」)と言われるように、「気」には、まず「真空の気」と「空の気」があるということであるから、これを開祖はどのように言われているのか調べてみる。

開祖は、「真空の気」は、

 など等

「空の気」は、 など等

また、開祖は「真空の気」「空の気」と別に、「気」ということを説明されている。もちろん、この「気」の説明の方が多いが、おそらくこの「気」は「真空の気」か「空の気」に所属するのではないのではないだろうか。その内の幾つかを見てみる。( )内は、私見で分けてみた分類である。

「気」 など等

これらのことから、「真空の気」は宇宙に充満していて、宇宙の万物を生み出す根元ということであることがわかる。これは、今の科学の世界でいうダークマター、ダークエネルギーなのかも知れない。合気道的には、一元の大御神の一霊と四魂、イザナギ・イザナミが起こした大元素、などと考えたい。

また、「気の摩擦作用によって、神霊元子に波動を生じ」「神の言葉、そのものが気である」とあるから、「真空の気」は波動、ということになるだろう。

「気」は近づき難いようであるが、「弓を気いっぱいに引っ張ると同じに、真空の気をいっぱいに五体に吸い込み」(「合気真髄」)といわれているから、真空の気を五体に入れることは容易なようで、意外と身近なもののようである。

一方、「空の気」は物であり、重い力をもっていて、引力をもっているモノであり、心と肉体を一つにむすぶモノで、力の本であるということだから、「真空の気」よりも、とっつきやすく、身につけることも容易なようだ。形稽古(気形の稽古)で、心と肉体を息に合わせて結びつけ、力をつけていけば、「空の気」を練ることができるだろう。

体も宇宙のひびきと同一化して、同化しなければならないから、「空の気」もやはり波動ということになる。

この「空の気」を開祖は、「自己の気」、そして「真空の気」を「天地の気」(「合気真髄」)ともいわれているようで、この「自己の気」と「天地の気」を気結びして宇宙と一体とならなければならない、とされている。この「自己の気」「天地の気」の方が、身近に感じ、身につけやすいように思う。

「空の気」と「真空の気」、つまり「自己の気」と「天地の気」を気結びすれば、技が生み出されることになるようである。これを気形の稽古で技の練磨をし、技を生みだしていかなければならないことになる。

これを、開祖は「真空の気と、空の気を性と技とに結び合いて、練磨し技の上に科学しながら、神変万化の技を生みだす」のだ、といわれている。