【第392回】 気で導く

合気道は争わない、力が要らない、などといわれるが、基本的に武道である。武道であるからには、理不尽な攻撃に対して、戈(ほこ)を止めることができるように稽古をしていかなければならないだろう。宇宙生成化育や地上楽園建設に反するものの力を少しでも制し、また、それらを導くようにならなければならないはずである。

そのためには、ある程度の力は必要であるし、力をつける稽古も必要である。初めから名人になったつもりで力を抜いた稽古をするだけでなく、相対稽古での相手や、自分の教えている生徒に、力を抜けなどというのでは、武道の稽古にならないと考える。

いつもいうように、開祖は力を抜け、力に頼るな、力むな、とはいわれたが、力が必要ない、などとはいわれなかった。むしろ、「さわって飛ぶような稽古をするな」と厳しく戒められていたし、また、稽古時間の合間に先輩達との雑談の輪に入られたときなどには、ご自分の力自慢をされていたものだ。

とりわけ、若くして入門したなら、まずは力一杯稽古をし、力をつけなければならないだろう。先輩に対しても、遠慮なくぶつかっていくべきだろう。腕や足腰を丈夫にし、体と気持ちと息を鍛えるのである。これは武道の基本であろう。これが「体の体当たり」、「気の体当たり」であり、稽古はこのような体当たりから始めなければならない、と教わっている。

ぶつかり稽古をしていくと、その内に、ぶつかってぶつからない稽古ができるようになるはずである。また、そうならなければならない。これが合気道のおもしろいところで、ある程度稽古したら、次はその正反対の稽古、それまでの裏の稽古に、反転しなければならないのである。

力で相手にぶつかり、力で押したり引いたりして、相手の力を抑え、技をかけている頃は、腕や腹に筋力を充実させ、また、相手を導くべく気力を充実させることによって、相手を倒したり、抑えたり、極めたりする。腕に力を充実することによって、相手を感じ、相手を導く。相手が押したり、引こうとすることを察知して、相手を導くのである。

しかし、この段階は、腕力、筋力で導く魄主体の稽古である。ここから、開祖がいわれているような、「気」で導く魂の稽古にならなければならない。

とはいえ、この「気」の正体が明瞭ではないのである。開祖は「気」を明確に定義されてはいないが、いろいろな見方から説明されているので、近い内にまとめて書いてみたいと考えている。

今回は取りあえず、「気で導く」ということの話を進めたいと思う。ここまでは力で相手を導いてくるわけだが、次の段階では、この力の魄を裏にし、気(気持ち、意識、心とする)を表にするのである。力を必要としないのではなく、裏に控えさせておき、主体で働かせないのである。主体的で働くのは、もちろん気である。

例えば、正面打ちや片手取りで、打つぞ、とか押し込むぞ、という気を発する。すると、相手はそれに反応して、気持ち(気)をこっちに向かって出したり、あるいはひっこめたりするだろう。気持ちが動けば、それに従って体は動くものだ。

相手の気が動いて、こっちへ向かってくる場合には、それを止めずに流してやると、相手はその力の流れを止めたり、反転しようとするものだ。その動きより若干早くこちらの気(心、気持ち)が先行し、相手を導くのである。

力が主体で相手を導くのは、初めの若いうちはよいが、いつまでも続けることはできないだろう。力で相手を動かそうとすると、多くの場合、相手はその力に対抗してくる。それに対して、相当の力を使わなければならなくなる。

だが、力を裏に控えさせて、気で相手を導くと、意外と相手は素直に導かれるものである。力でやると、相手は意識で対抗しようとするが、気の場合には、相手の無意識に働きかけるらしく、力も入らないようで、がんばることがなくなり、導きやすくなる。