【第381回】 日月の気

合気道で練磨している技とは、宇宙の営みを形にした、宇宙の条理、宇宙の法則に則ったものである、といわれている。だから、その技を遣うためには、体も心も、宇宙の法則に従い、宇宙の営みと一体となって遣われなければならないことになる。

争いの心を持ったり、腕力に頼った稽古をするのではなく、天地(宇宙)の営みの中で、天地の力をお借りして、技を身につけていかなければならないだろう。

合気道を創られた翁先生(大先生)は「合気は宇宙組織を我が体内に造り上げていくのです」といわれているのである。

翁先生はまた合気道、つまり、技の練磨には「日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満の四つの宝を理解せねばいけないのである」ともいわれている。

天地の呼吸は縦の呼吸、潮の干満の呼吸は横の呼吸であり、縦横十字の呼吸となる、と以前書いたが、「天の呼吸と地の呼吸、潮の干満」は理解しやすく、諸手取り呼吸法などでも体現することができる。だが、「日月の気」を理解し、そしてそれを体現するのは難しいものだ。

今回は、この「日月の気」の研究を対象に試行錯誤してみたいと思う。まず、「日月の気」とは「天の気」であり、天が有するエネルギー(力)である、と考える。天には目に見えないが膨大なエネルギーがあり、そのため、万有万物は天に向かって生成化育している、といえるだろう。赤ん坊は生まれてハイハイするようになれば、天に向かって立とうとするし、人は地に倒れれば起き上がろうとする。植物もまた、天に向かって伸びようとする。天には大きい力があるわけだが、それを「天の気」、「日月の気」といわれているのだろう。

「天の気」を意識する場合、漠然と広大な天を意識するよりも、天にある日と月を意識した方が意識しやすいし、結びつきやすいから、「日月の気」とされたのではないかと考える。それ故、これ以降は、「日月の気」を使うことにする。

「日月の気」を意識して稽古をすると、これまで分らなかったことやできなかったことが、うまく行くようになるようである。

まず、「日月の気」を意識して立つと、天と己が結びつき、己が天と地の間にいるという実感が持てるようになるようだ。

人が地に立てば、その上には天があるので、天と地の間に立っているわけである。だが、なぜ通常は、天とも地とも結ぶ、ということが実感できないのだろうか、という疑問がある。

答は、意識の問題であるようだ。天を意識する際に、日常の雑事や、相手をなんとかしてやろう等ということを思う心でいると、天が喜ばないのではないだろうか。何も考えない、無垢な心でないと、天とは結ばれないようである。

濁った心は重く、下に沈むだけであって、天には上っていけない、ということなのだろう。無垢な清い心は軽いので、天に上っていけるのだろう。

意識(心)が天と結ぶと、次は地と結ばれる。そして、天地の呼吸(縦)と潮の干満(横)の呼吸が始まり、己が天地と交流している、と思えるようになる。

翁先生は「私は自己のうちに天台をつくり、自己が天地と宇宙と常に交流するように心がけた」といわれている。

「日月の気」と結ばなければ、天地や潮の干満の協力は得られないだろう。そうすると、己の身体だけでやらなければならなくなる。若くて体力のあるうちは魄力でできるだろうが、限界がある。

「日月の気」と結び、天と地の中に立って、技の練磨をしていかなければならない。これを、翁先生は次のような道歌で教えて下さっている。

「天地に 気結びなして 中に立ち 心構えは山彦の道」