【第374回】 合気道とは

私が合気道を始めたのは学生時代であったが、当時、合気道はあまり世間に知られていなかった。というのも、その数年前までは誰でも入門を許されたわけではなく、二人のしっかりした保証人が必要とされていたからである。

たまたま空手をやっていた友達から合気道というものを聞いて、入門したのであるが、合気道がどんなものかなどもよく知らなかった。しかし、稽古を続けているうちにわかるだろうと思った。

その頃は開祖がお元気で、我々稽古人を叱咤されながら指導されており、生徒も一生懸命に稽古していた。私も合気道に魅了され、学業もそこそこに稽古に打ちこみ、それが楽しくて、会う人ごとに合気道はいいぞ、と言っていたのである。だが、そう言うと相手は必ず、「合気道って、なに?」と聞いてくる。自分ではわかっているように思っているのだが、答えが出ないのである。

当時は柔道と空手はみんな知っていたが、ほとんどの人は合気道など見たことも聞いたこともなかった。説明することも難しく、いろいろ説明してみても、ほとんどわかってもらえなかった。二教の裏(小手回し)できめたりすると少しはわかってもらえるかも知れないと思ったが、敵意もない相手にそんなこともできず、悩んだものだ。

5年ほど稽古に打ちこんで、二段をもらってヨーロッパにいくことになった。ある時、フランス人の友人宅に集まった人たちに、合気道とは何かを説明しなければならなくなった。フランス語が話せないこともあり、軽はずみにも弾みで二教をかけてしまい、相手にちょっとしたダメージを与えてしまったのである。これは、今でも後悔していることである。おそらく彼らは、合気道とは柔術のできそこないのようなものかと思ったろう。

合気道とはなんだと聞かれて、答えられなかった理由は簡単である。合気道をまだ十分に稽古してなかったためである。

とりわけ武道などに縁のないような人に、合気道を一言で説明するのは難しいものだ。武道を少しでも知っている相手なら、その武道との対比で説明できるだろうが、対比する基準がなく、無から説明しなければならない場合は大変である。

それまで何も習ったことのない、武道に縁がない人に、合気道を一言で説明できたならば、それは相当深くまで稽古していることになるだろう。逆に言えば、誰にでも合気道とは何か、どういうものなのかを、一言で説明できるようになるまで、稽古しなければならないということになるだろう。

開祖がいろいろと話されたように、合気道とは何かの答えはたくさんあり、絶対唯一のものはないだろう。開祖の「合気道とは」は、時と場所、話す相手、環境によって変えられていたので、いろいろな答えがあるのだろう。

しかし、各人は各人の合気道観の一言を持っていなければならないだろう。開祖の合気道観は、合気道そのものであるから、合気道とは何か、を言われていることが即、開祖の合気道観になるはずである。

従って、われわれ稽古人は、合気道とは何かという普遍的な答えと、その合気道とその合気道が自分にとって何なのか、という合気道観の答えができなければならないだろう。

因みに自分自身で合気道の一言解答をするとすれば、以下のようになるだろう。「私にとって合気道とは、宇宙の営みを形にした合気道の技を、繰り返し稽古し、宇宙の営みと宇宙のエネルギー(気)を身心に取り入れ、宇宙(自然)と一体化しようとする道楽である」

このような趣旨を、相手や場所によって、宇宙を自然に置き換えたり、スポーツのような相手との勝負ではなく、自分との終わりのない戦いである、等などを加えたりすればよいのではないだろうか。

合気道を一言で説明するとしても、各人が違うことを言うだろうし、時と場所や相手によっても違うだろう。ある意味では、自由であるわけである。だが、ここで注意しなければならないことは、言ったことは技で現わすことができなければならない、ということである。これが合気道の特徴の一つであって、他とは大きく異なるところである。

稽古人各々が、合気道とはこういうものですよ、と一言で言えれば、合気道のすばらしさがさらに世間に伝わり、合気道を稽古する人が増えるだけでなく、合気道の思想が伝播し、世の中のためになるのではないかと考える。