【第372回】 合気道とスポーツ

前回の「武道の合気道」では、合気道は武道として厳しく稽古していかなければならないと書いた。

合気道は書いたように、武道であり、スポーツとは違う。これは誰でもよくわかっているし、よくいわれることだ。だが、いまひとつスポーツとどこが違うのかがはっきりしないようなので、今回はその違いを整理してみたいと思う。ここがはっきりしないと、武道としての上達が難しいと思われるからである。

スポーツにも武道の合気道にも稽古の目標はあるが、スポーツは相手に勝っていくことである。だが、合気道は自分に勝っていくことである。スポーツでも自分との戦いになれば、それは武道と同じになるし、合気道でも相手との勝負でやっているうちは、スポーツの稽古と変わりないことになる。

開祖は、スポーツは魄の世界のものである、といわれていた。スポーツでは、体力と腕力がなければならない。これがなくなった時は、引退である。

合気道でも体力、腕力はあった方がよいが、それがメインではない。だから、体力や腕力が衰えても、稽古は続けられる。合気道の力は呼吸力であり、また魂の力ともいわれるものであるから、長く稽古すればするほど、身につくものである。だから、年をとってもできるものであり、むしろ年を取らないと本当のことはわからないし、身につかないであろう。スポーツはこの意味で、若者のものであるといえよう。

スポーツは、今が大事である。今の試合や勝負に負ければ、意味がない。だが、合気道は、相対稽古で相手に今、歯が立たなくとも、それを基にして上達すればよいし、来年、5年後に対等にできたり、場合によっては、相手を越えていて喜べることもあるだろう。といっても、それが目標ではない。今を一生懸命やれば、後はどうでもよいのである。

次に、スポーツにはルールがある。ルールがあるから、スポーツが成立する。やってよいこと悪いこと、どこまでやってよいのか等が、決まっているのである。

また、スポーツにはルールがあるから、多くの事が禁止されている。だが、武道的に見れば、スポーツにはかえって危ないことも多く見られる。

それに対して、武道は基本的になんでもありである。合気道の稽古でも、本来はなんでもありであるから、それを想定して稽古しなければならない。例えば、捕りは受け手の相手が、いつ打ってきたり、蹴ってきても、それを制することができるようにしなければならない。

技をかける側は、相手にスキを見せないだけでなく、いつでも相手を “制する”“きめる”という気持ちを持ってやらなければならない。実際には、殺すことや怪我をさせることは許されないのであるが、気持ちの上ではそのような厳しさを持ってやらなければならないと考える。当て身はどうすれば入るのか、どこに当てればいいのか等など、考えながら技をつかっていくのである。

受け手も、たとえば当て身に対しては、ここに来るなとか、来ればダメージは大きい等と感じながら受けをとり、また相手にスキがあるようなら、ここで打てるとか、投げることもできる等と思いながら、互いに切磋琢磨していくのである。

だから、武道の稽古には、無限の可能性と危険性があることになる。稽古を続ければ続けるほど、その危険性に気づき、対策を講じるようになるものだ。危険性をすべてなくすことも、可能性を完全なものにすることも、人として不可能であることを知ってはいるが、武道家はそれに挑戦するのである。

スポーツ選手やスポーツマンが自分の限界などといって引退するのとは違い、年令やまわりの他人には関係なく、挑戦し続けるのである。残念ながら、合気道家や他の武道家でも、若くして引退する人がいるが、スポーツ的な考えをもって稽古しているからではなかろうかと考える。年齢などには関係なく、不可能とわかりながら挑戦し続けるロマンの武道家でありたいものである。

最後になるが、スポーツの稽古の目標が他人に勝つことであるのに対して、武道は自分を鍛えていくことにある。合気道では、自分を鍛えなければならないが、それは地上楽園、宇宙天国の建設のための生成化育をお手伝いすることである、といわれている。合気道は、万有万物のため、宇宙のためのもの、ということになる。

合気道の稽古の最終目標は、宇宙との一体化である。このために、合気道の技の稽古において、相手と結ぶ稽古、相手と一体化する稽古からはじめるのである。この意味でも、原則が勝負という弾き合いのスポーツとは正反対である。

まだまだ合気道とスポーツには違いがある。スポーツとは区別した上で、よいところは取り入れ、武道として違っていると思われるものは取り入れないようにしながら、稽古していくべきだろう。