【第363回】 自分にないものが出てくる

スポーツや試合のある武道とは違って、合気道には勝負や試合がない。試合があったり、勝負があれば、他人に勝つため、または他人に負けないように、稽古や練習を続けていけばいいし、それが稽古の目標にもなるだろう。だが、合気道では試合や勝負は厳禁であるので、合気道の稽古の目標はまた違ったものとなる。

合気道には、最終的な目標がある。それを、開祖は、宇宙楽園建設のための宇宙生成化育のお手伝いをすること、といわれている。

しかしながら、この究極的な目標は余りにも遠大なこともあろうが、ほとんどの稽古人はそれを意識して稽古をしていないように思える。

だが、稽古人は誰でも、合気道に何かを求め、また、ほどほどの目標を持って稽古に励んでいることだろう。例えば、うまくなりたい、強くなりたい、健康になりたい等などである。他人の目標は分らないが、この機会に自分の目標を確認してみたいと思う。

合気道は、技の練磨を通して上達していくものである。それほど多くない基本技を何度も何度も繰り返し稽古しながら、技の法則を見つけ、身につけて行くのである。稽古している技は、宇宙の営みを形にし、宇宙の法則に則っているものであるから、技の中には宇宙の法則があるわけである。

合気道の技、つまり技の法則は、新たなものや奇抜なものを作り出すのではない。それは既に有史以前からあって、技はそれが取りだされるのを待っているだけなのである。

新しい法則を見つけて、それを身につけると、自分の技が上達したことになる。これは、自分が発明したものではない。既にあるものを見つけたに過ぎない。だが、これが面白い。

発見や上達の喜びだけでなく、この発見によって自分が予想もしていなかったものが出てきたり、今までは不可能と思われていたことが突然できるようになったりする。それは発見した結果として分るもので、稽古の前には予想もつかないものである。

例えば十字の法則を発見したとすると、それまで無かった異質の力(くっつける力、相手が喜んで受け入れる力、自分以外からの力等など)が出てくる。自分にはないもの、自分以上のものが出てくるのである。稽古を続ける理由の一つは、技の練磨を通して、自分が予想もしていなかったもの、自分以上のものが出てきて、それで上達していくことであろう。

私の好きな画家の熊谷守一(1880-1977)は、「絵を描くのは初めから自分にも何を描くのかわからないのが、自分にも新しい描くことによって自分にないものが出てくるのがおもしろい」(熊谷守一)と言っている。

一生懸命にやれば、予期しない、自分にはないものが出てくるはずである。稽古をやっていて、出てくるものがわかったり、結果まで見えてしまってはつまらない。何がでてくるか分らないが、自分以上のものが出てくることを信じて、稽古を続けるのがよいだろう。何か出てくるのが楽しみになれば、試合はなくても、体が動く限り稽古を続けられるはずである。