【第353回】 すべて繋がっていく

稽古をしていると、何か発見があって、すぐに試してみたりするが、その結論が本当に正しいものかどうかということは、分かりにくいものである。それを判断してくれる先生や先輩などがいればよいだろうが、そういう方がいないと、自分で判断していくしかないことになる。しかし、自分で判断するにしても、客観的とまではいかないまでも、自分を納得させる何かが必要となる。

合気道は真善美の探求であるともいわれるが、真善美を探求しているのは合気道だけではない。お能や仕舞い、舞踊、茶道、華道、書道は言うに及ばず、あえて言わせてもらえば、人が探求しているすべてのものは、真善美の探求をしているといえるし、さらに人そのものが真善美を探求しながら生きていると言えるだろう。

合気道は武道であるから、技を出すためには、力の養成とその使い方が重要である。これに対して、お能や仕舞い、舞踊は美しさが重要になる。合気道とお能や仕舞いは、探求していくものの重点が違うわけである。合気道の技の稽古をするのに、お能や仕舞いのように動いていては、合気道の稽古にならないだろう。また、お能や仕舞いで合気道の動きのように武道的に動くのでは、優雅なお能や仕舞いにはならない。

しかしながら、合気道でも、お能や仕舞い、日本舞踊でも、茶道、華道、書道でも、また、西洋的なダンスやスポーツでも、探求が進んでいくと、すべてがつながっていくように思われる。

例えば、合気道では技の練磨をして行く際に、手先から動かすのではなく、体の中心である腰腹の力で手先を動かさなければならない。これはお能や仕舞いでも同じである。幽玄の世界の優雅な動きをするためには、腰腹、背中、肩、腕、手先と、力を中心から末端へと流さなければならない。

茶道でも腰腹から手先に力を伝え、腰腹でお茶をたて、お点前をするのである。華道や書道は、専門家に聞いたわけではないが、手先で花を活けたり、書を書いたのでは、大したものができないのは明瞭である。社交ダンスでもモダンダンス、氷上ダンスでも、上手は体の中心を使って手足を動かしている。それは、役者の演技でも同じことが言えるようだ。

体の中心を使って末端の手足をつかうことは、すべてにつながっていくようだ。このように、すべてにつながっているものは、正しいものであり、宇宙の法則に則っていることになるだろう。

合気道を探求していく上で、他のことにつながっているかどうかを知りたいと思えば、合気道だけやっていればよいということにはならないだろう。そうだからと言って、お能や仕舞い、茶道、華道、書道、また、西洋的なダンスやスポーツなどなど全てをやらなければならないというわけでもない。そんなことは不可能にきまっているし、そのような人はいなかったし、これからもいないはずである。

では、他のことを知るとはどういうことなのかいうと、合気道につながっているものを、自分が素晴らしいと思うものの中に見ていけばよいと思う。上記のように、中心で末端をつかうということを、お能や仕舞い、茶道、華道など他の分野で見てきたが、この他に繋がっているものとしては、例えば手を螺旋につかう、体を捻らない、なども他分野で見て、知ることができる。

すべてのものは、つながっていく。つながらないものはいずれ消えていくだろうが、そうでないものはどんどんつながっていき、至真、至善、至美の宇宙楽園ができていくだろう。宇宙楽園のお手伝いをするためにも、すべてにつながっていく稽古をしなければならないようだ。