【第350回】 技は人格の表現

人は古今東西を問わず、人格を表現したいと思って生きているようだ。画家は人格を絵に、作曲家は楽譜に、演奏家は演奏に、歌手は歌声に、また小説家は小説に、哲学者は哲学にと、自分のすべてを入れ込んで仕事している。だから、作品や仕事には人格が入る。とりわけ著名な人たちの最後の作品には、その人のすべてが入り込んでいるようだ。

それ故、素晴らしい作品や演奏や歌声等などに接すると、感動すると共に、その人格に興味を持つことになり、どんな人がどんな考えでそれをつくったのかを知りたくなる。

人格とは、人柄、品性ということで、横文字で言えば、パーソナリティーである。

合気道においても、同じであろう。技は人格の表現であると、武道の世界で言われているように、技が人格の表現になる。

しかし、技に本来の人格が現れるようになるのは、容易ではない。平凡な絵には人格が現れないように、適当な稽古をしていたのでは、技に人格が現れない。無心にならなければ、人格は現れないのである。「無心に稽古してはじめて、自ずから技に人格が現れるものだ」と、故有川定輝師範は言われている。

無心に稽古するためには、他人やまわりをどうこうするのではなく、自分を厳しく見つめ、自分を掘り下げ、自分のレベルの低さを知って、自分を昇華していかなければならないのである。無心の稽古をすることによって、道につながるのである。道が見えてきたら、その道に自分を合わせていくのである。人格のための真善美の探求、気育、知育、徳育、常識の涵養を、軌道に乗せていくのである。そこに、その次元での人格が技として現れてくるのだろう。

しかし、道に入るのが、また容易ではない。それは、稽古を続けているとわかることだろう。だが、初めのうちは、相対稽古で相手を倒すべく稽古をしないと気が済まないはずである。そのために、体力や腕力をつけ、そして、倒すためのテクニック(術)を身につけることになる。

この倒す術がある程度できるようになってから、はじめて「術から道に移行する」(有川師範)。また、師範は「稽古を通して、身体的にも精神的にもしっかりした芯を創らなければいけない。芯を創ることによって一生を通じた一貫性が生まれ、道になる」とも言われている。道に移行するのも、容易ではないのである。

有川師範を知っている人なら、師範の技は師範の人格と寸分違わない表現であったことを疑わないだろう。師範のあの厳しい技は、師範が言われていたように、ご自身でもやりすぎるほどの極限ぎりぎりの生き方、心構え、気構えの表現であったはずである。

有川師範は、われわれ稽古人に「自得しなければ駄目なんだ。」、「武道なんて言っているから技が駄目になるんだ、まあ武道というよりは武術だな」、「今の人は道に合わせるのではなく、自分に合わせる。それではいけない。自分に厳しくしないと。厳しいから面白い」「武道家たるもの己を捨てることが大事である。仕事をやる場合でも同じで、そういうものになりきってやらなければ成果は上がらない。そういう気持があれば、合気道の技も一段と鋭さが増してくる。」(有川定輝先生追悼記念誌)と叱咤激励されていた。

人格の表現になるような技がつかえるように、頑張らなければならないが、もちろん人格をつくる鍛練もしなければならない。合気道の目標でもある、真善美の探求、気育、知育、徳育、常識の涵養を追求することである。それらがどの程度であるかで人格が決まるから、技もその程度に表現されることになる。

最後になって、どれほどの人格になり、その人格で最後にどんな技が表現できるのか、不安ではあるが、楽しみでもある。