【第343回】 天之浮橋に立つために

合気道は技の練磨で精進していくものであるが、この合気の技の練磨は容易ではない。その理由の一つは、「技」というものが明確でないことである。「技」は、形がないものである。二つ目に、練磨するための技を、どうすれば生み出すことができるか、が分からないのである。

「技」は宇宙の営みを形にしたもので、宇宙の条理に則り、宇宙の法則という法則性があり、それは合気道で稽古している技の形につまっているはずである。技を見つけ、それを身につけるために、技の形の稽古をしているわけであるが、宇宙を対象とする技は、なかなか身につかないものである。

開祖は「この合気の技の生み出しは、悉く天之浮橋がもとになっている」と言われ、技の練磨をする際には、まず、天之浮橋に立たなければならないといわれているのである。

天之浮橋とは、開祖によれば「丁度、魂魄の正しく整った上に立った姿。火と水の相和している姿。霊の世界と実在の世界の両方面が一つになった世界。つまり、十字なのです」などと言われている。

従って、合気の技を稽古で生み出すためには、まずは体や魄に頼ることなく、体と精神が十字に整った姿の天之浮橋に立たなければならないことになる。

開祖は、この世は一元の大神様の意志の営みの現れであり、これが天之浮橋である、といわれている。つまり、天之浮橋に立つということは、大神様の宇宙建国の大精神を目標に進むことと同じである。天之浮橋に立って、合気道を行えば、水と火の交流とむすびによって、体と精神と共に、大神様の意志に沿った、宇宙の条理に則った技を生み出していけるようになるのである。そうなると、人を超越した技がでてくるはずである。

天之浮橋に立つためには、一番のもとの大神様(親様大元霊)に帰一することであるが、そのためには自己を無にして、鎮魂帰神の行いにかなうように努めなければならない、といわれる。

前にも書いたように、自己を無にするとは、無心になること、主観をなくすことである。つまり、左脳の“私“を消すことであろう。“私“を消すためには、“私“の対象となるもの、例えば、社会、会社、仕事、勉強、他人等などを消すことである。これらを消すために、儀式をしたり、瞑想したり、祈ったりするのである。