【第320回】 真理をつかむ手段

人はおそらく、誰でもなにか絶対的なものを求めていると思う。絶対的なものとは、時や場所や民族によってその絶対性が変わらないものである。また、そこには絶対的な真善美がある。それを真理ともいい、また、神ともいうようだ。

真理をつかもうと、人類は数千年の歴史を送ってきたわけだが、真理をつかむ手段はいろいろあるようだ。科学や宗教を筆頭に、絵画・音楽等の芸術、歌・踊り等の芸能などで、真理をつかもうとしている人は多いだろう。

もちろん、合気道も真理をつかむための手段のはずである。合気道の目標は、宇宙との一体化であり、真善美の探究であるからである。

「絵を描くことは真理をつかむための手段である」と述べた近代日本美術を代表する日本画家である村上華岳(むらかみかがく)画伯は、絵は手段であるから上手くなくてもよいといっている。しかし、彼の絵は上手くないどころではなく、万人がすばらしいと評価する絵を描いている。

何がすばらしいのかと考えてみると、真理をつかんで絵に描こうとしていることだと思う。真理に近づけば近づくほど、真理をつかんだ絵になるのだろう。そこにはもはや上手い下手ではなく、真理にこれだけ近づいたという喜びが描かれているのではないだろうか。

合気道も、真理をつかむための手段としての武道であるが、開祖も村上華岳画伯と同じようなことをいわれていた。つまり、「合気道には形がない」と。しかし、形は無いのだから、どんな稽古をしてもよいということにはならない。実際、開祖がおられた頃、形を崩したり、力を抜いた稽古をしているのを見つけられると、烈火のごとく叱られた。当時は、形などない、形など大事でない、といわれているのに、なぜ叱られるのか理解できなかった。

形ではなく、自由自在に動けるためには、まずはしっかりと形の基本の稽古をしなければならない。正確に、力いっぱい、稽古をしなければならない。開祖も、基本はしっかりとやられたはずである。村上華岳画伯の描かれた魚の絵の精密なことは、写真のような正確さで、うろこのひとつひとつが描かれている。

合気道も真理をつかむ手段であるから、技がうまくなくてもよいということになるだろうが、それは開祖や村上華岳画伯のレベルに辿りついた人のいうことであろう。凡人であるわれわれレベルにあっては、技を少しでもうまくつかうようにしなければならない。なぜならば、合気道では宇宙の営みに則った技を通してしか、宇宙の条理である「真理」をつかめないからである。

絵描きは、自分がどこまで真理に近づいたかを絵で表現する。合気道家は、それを技で表現するしかないだろう。

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