【第299回】 飽くなき探求と宇宙の営み

人類の歴史は4,5百万年などといわれるが、人が生まれては死に、生まれては死にを繰り返しながら、何かに向かって、それも螺旋状に、突き進んでいるように思える。螺旋状という意味は、歴史を考えてみても、例えば戦争など同じ出来事でも、時が経つにつれて規模や影響がどんどん拡大している事でもわかるだろう。

我々人類の祖先も未来の人も同じだと思うが、現在地球上にいる人類は、みんな悲しい事には泣き、嬉しい時には笑い、腹が立つことには怒る。そして、少しでも楽しく、笑えるように生きたいと思っているはずだ。悲しいのに笑ったり、腹が立つべきなのに喜ぶ人はいないはずだし、楽しい事より悲しい方をよしと選択する人もいないはずだ。

人類は皆、喜怒哀楽も同じであるし、また、間違いなく、楽しい、嬉しい、幸せな方向に向かって進んでいるといえる。

芸術や科学の世界でも、飽くなき探求がなされてきているし、これからも続くはずである。芸術でも科学でも、また、芸術家にも科学者にも、これで完璧で打ち止めということはないはずだ。死ぬまで探求し続けても、それでも探求しきれなかったといって逝ってしまうのが、人の常であろう。芸術や科学などでは、飽くなき探求が人類に宿命づけられているようだ。

もっと身近にも、それが見られるだろう。人は誰でも、少しでも幸せになろうとしているし、少しでもモノを美しくしよう、美しいものを作ろうとする。そして、より美しいものに憧れる。人も学問も、そして世の中すべてのものは、ある方向に向かって進んでいるようである。

合気道は真善美の探求である、と開祖から教わっている。この合気道が目指している真善美こそが、その「ある方向」と考える。そしてこの真善美が「宇宙の営み」ということではないだろうか。

つまり、真善美の探求は、合気道の修行となると同時に、人の生きる方向であり、人類の目指す方向ということになる。

合気道の技は、宇宙の営みを形にしたものであるから、技を身につけることによって、宇宙に接近でき、宇宙の営みである真善美を身につけることができるようになるのだろう。それを証明して下さったのは、合気道の開祖である植芝盛平翁ご自身である。合気道の技は超人的であったし、その姿勢、動作、立ち振る舞い、言動、思想などなども、まさしく人として、真善美の極致ということができるのではないだろうか。

我々凡人が開祖のあの極致にいくことは、恐らく不可能だろう。できる事は、開祖に少しでも近づくように修行するだけである。それなら、誰でもできる。合気道の修行を通して、真善美を飽くことなく探求し続けることである。この飽くなき探求こそ、宇宙の営みであるから、その修行が宇宙の営みと一体化することになる。

これが、合気道は真善美の探求である、ということであり、合気道の目標は宇宙と一体化することである、ということであろう。