【第277回】 天之浮橋に立つ

開祖は、天之浮橋に立たなければ武は生まれない、といわれる。天の浮橋に立たなければ、合気道の技も生まれないわけだから、何としても天之浮橋に立たなければならない。しかし、この天の浮橋がどこにあるのか、なにものなのか分からない。分からないから、立つこともできないわけだが、現実では分からなくても分からないまま、喜々として技を掛け合っている。しかし、天之浮橋に立たないでやる技は、真の技ではないということだろうから、なんとか天之浮橋を知り、天之浮橋に立って稽古するようにしなければならないだろう。

いずれにしても天之浮橋の正体を見つけなければならない。天之浮橋という言葉は開祖の時代以前からつかわれており、神道では重要な意味を持つものだったようである。例えば、垂加神道(「神は垂るるに祈祷をもって先となす。冥は加うるに正直をもって本となす」から採られた、吉川惟足が山崎闇斎に贈った名号。―― に基づく神道流派)を創始した江戸時代の儒学者・山崎闇斎は「天浮橋之伝」を書いたが、それによれば「天浮橋とは、不通を通ずる義、陰陽感通の処をいう、橋箸端よみ通ず、上に立つとは、陰陽共にきっと立て感通するを云うなり」(「合気道マガジン」)とあるといいう。ということは、天之浮橋に立つということは、本来対照的で相容れない縦横、陰陽などの要素をひとつに結んで立つことのようだ。

合気道では、天之浮橋に立たされる姿は、魂魄の正しく整った十字の姿、火と水の調和のとれた世界であるという。まずは、この天之浮橋に立たなければならない。火と水とはイザナギとイザナミ、魂(心)と魄(体)、縦と横が調和のとれた十字になる、ということであろう。立った際には、心のバランスを取り、また体のバランスを取り、さらに心と体のバランスを取るということになるだろう。

開祖は「祈りも天之浮橋である」と言われているが、祈ることによって肉体と心の魂魄が正しく整いやすいことと、また、祈りの言葉を口から横に発し、鼻から縦に息の出し入れをすることで、口と鼻のところで十字になり、ここが天之浮橋になるということと解釈している。

開祖は、天之浮橋は「火と水が和合して活動する姿、火と水の相和している姿ともいう」といわれるから、天之浮橋は、相対するものが和合、相和、調和し、そして整っていることであるので、心と体が和合、調和するということだろう。

また、天之浮橋は火と水のような対照力によって現れるという。だから、天之浮橋に立つ折は、火(心)と水(体)、陰と陽、上と下、前と後、強と弱、出すと引くなど、対照力を持たなければならない。対照力の片方しかないのも、対照力のバランスが崩れても、天之浮橋には立てないことになるはずである。

例えば、対照力のひとつに遠心力と求心力があるが、技をつかったり、鍛錬棒などの得物で体を鍛える場合、この対照力のバランスが重要である。よほど注意しないと求心力でやってしまうので、天之浮橋に立てないどころか、体を痛めてしまう。特に、重いものを扱う場合は、大きな求心力(腰腹に引きつける力)が必要だが、それと同等の遠心力をつかわなければならない。求心力と遠心力の対照力のバランスがとれ、体の各部位(腰腹、肩甲骨、肘、手首等)が0(ゼロ)になれば、そこが天之浮橋ということになると考える。

そして「身と心に、食い入り、食い込み、喰いとめて、各自自分の体全体が、天之浮橋の実在であらねばならない」(開祖)といわれるから、体全体が天之浮橋になって使われなければならないということである。鍛錬棒を振って遠心力と求心力のバランスが取れて、0(ゼロ)の天之浮橋が腰腹、肩甲骨、肘、手首等にもできるということであろう。

人間の体は、十字に機能するように創られているといえよう。足底と脚、胴体と腕、手首と小手、小手と高手(上腕)、高手と鎖骨、鼻と口(縦の息、横の息)等などである。「十字が天之浮橋である」と開祖は言われているから、これらの十字になっている部位は、本来、天之浮橋にあるはずである。これらは通常意識しなくとも、天之浮橋に立っているのでうまく働いてくれるはずであるし、また、天之浮橋として使うのはそう難しくないのかもしれない。機能しないのは、カスが溜まって邪魔をしているか、心とのバランスが悪いなどという理由があるのだろう。

十字の天之浮橋に立つから、人は倒れないで立っていられるのだろう。十字が人体のどこにあるのか見てみると、まず、足底と脚・胴体が横と縦の十字なっていて、地へ縦の力を落とすと横へ手や足が上がり、十字に力が作用する。息は、鼻による縦と口による横に出入りする。

気持(心、魂)が天の息に従い、日に向かって螺旋で舞い上がり、そして、立っている地を突き抜けて月に向かって舞い降りると、自分が日と月の間にいるように感じられ、これが天之浮橋に立っていることかと思える。そのためには、天にも地にも隔たらず、体と心のバランスがとれ、体のすべての箇所は、バランスよく対照・融合し合い、気を抜かず力まず、すべてのものを吸収し融合してしまうような状態になければならないだろう。

技を掛ける際も、天之浮橋に立たないと技は掛からないはずである。技が掛る際は、必ず空白の時間がある。対象力が一方だけに偏ることなく、すべての方向からのバランスが取れているため、そこが0(ゼロ)になっており、あたかもそこに何もないように思える所と瞬間である。二教裏でも入り身投げでも、決まる瞬間は天之浮橋にあるといえるだろう。

合気道の技は、宇宙の営みに則ったものであるから、宇宙の法則に従って遣っていかなければならない。相対稽古の相手の体も、やはり十字の天之浮橋に立っているわけだから、技で自分の体をつかう場合も、自分だけではなく、自分と相手がひとつになり、天之浮橋に立って遣わなければならないことになる。

日月の気や呼吸や宇宙の営みに、自分の心と息を合わせて技を遣うようにしなければならない。日月の気や呼吸を感じるためには、天之浮橋に立たなければ感じないようであるから、更なる精進のためにも、天之浮橋に立つ研究をしていかなければならない。

参考・引用文献:
「武産合気」 植芝盛平翁口述
「合気道マガジン・合気道の神道原理」 清水 豊