【第274回】 見えないものを見る

開祖は「相手を見てはいけない。手を見てはいけない」といわれていた。しかし、入門したてとか、初心者の頃は、この教えに背き、技を掛ける際はどうしても相手を見、自分の手を見てしまうものだ。見ないと不安であるということもあるし、目で確認しないと安心できないということもあるのだろう。

しかしながら、逆に、初心者の内、技の形がまだよく飲み込めない内は、相手の動きや反応、自分の手の動きや形をしっかり見た方が、がむしゃらで無頓着にやるよりいいのかも知れない。

開祖が相手や手を見てはいけないといわれたのは、本格的な稽古に入った段階でのことであって、上級者向けに語られていたと考える。

また、開祖は「目に見えざるところの世界の上に見えるように行うのが合気道である。目に見えざるところの仕事を目に見えるように仕事をする。目に見えなかったら、見えるように心を引き出す。」(合気道新聞 No.35)と言われている。またまた禅問答のような矛盾の教えである。

それでは、この開祖の教えを、上級者としてどのようにすれば身につけることができるのか、考えてみたいと思う。

合気道は一般的に、相対で技を掛け合って稽古をする。片手取り、諸手取り、胸取り、正面打ちなどで相手と接するが、その接点での自分の手や相手の手を目で見ても、力が出ないばかりか、相手の心を感じることは難しい。相手が争おうとしているのか、ぶつかってしまっているのか、結んだのか、相手は満足しているのか等などである。相手の心を感じるということは、相手をみるということであるが、目で見てもみえないものである。

開祖が相手を見るな、見る必要はないと言われるのは、見るとそれを感じ難くなるということでもあると考える。

はじめの、相手を見ないで相手を見る段階では、相手と接してから相手を感じ、相手を見るわけだが、次の段階では、相手と接する前に相手の心を知り、相手を見ることができるようにならなければならないだろう。例えば、相手が手刀や剣を構えて立ったときや、技を掛けようとしてまだ間合(まあい)の外にある場合などである。

対峙して相手の心を見るために大切なことは、相手と結ぶことである。やっつけようとか逃げようとかする心を持つのではなく、無害である心を相手に伝えて、相手の心を出させ、そして相手がやりたいようにできるよう、少し手助けをしてあげるのである。

つまり、相手を自分の心で包み込み、結んでしまうのである。結んでしまえば、相手の心が見えるだけでなく、相手の心を自由にすることもできるはずである。相手がやりたいようにするのをお手伝いするのだから、争いどころか、感謝されることになる。

合気道で修業していけば、道場の外でも、人の心が見えるようになると考える。また、さらに精進すれば、人以外の動物、植物などの生物、日月星の心も見えるようになるかも知れない。

万有万物には何か共通した、見えなくともお互い分かり合えるものがあるようだ。見えてきたならば、その心の望むように手助けしていけばよいのだろう。それを、開祖は「愛」と言われていたのだと思う。「愛」とは、相手の立場に立って、ものを見、考え、そして実行することであろう。「愛」があるから、相手の心を引き出すことができるのだろう。

このように修行していく道が、開祖が言われる「目に見えざるところの世界の上に見えるように行うのが合気道である。目に見えざるところの仕事を目に見えるように仕事をする。目に見えなかったら、見えるように心を引き出す。」ということではないかと解釈している。

開祖はまた、相手を見るのではなく、ひびきによって全部読みとってしまうとも、また、山彦の道がわかれば合気道は卒業であるとも、いわれている。この宇宙のひびき、言霊が、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるということと関係があるのかもしれない。

ひびき、言霊の研究もしなければならない。道はまだまだ遠い。