【第271回】 宇宙の法則 「陰陽」

世の中のものは、互いに対立し依存し合いながら存在し、生成消滅しているという。それは見えるモノと見えないモノ、働いているモノと待機しているモノ、能動的なモノと受動的なモノ、表と裏などなどである。これを、陰陽というのだろう。具体的な例として、昔から、日・春・南・男などは陽、月・秋・北・女などは陰と、易ではされている。

世の中のもので、陰陽で構成され、表裏一体になっている例を考えてみると、人は起きていると寝たいと思い、寝ていれば起きたいと思い、働いていると休みたい、仕事がないと働きたい、暑いと寒いのを恋しがり、寒くなれば暑いのを恋しがる。満腹になるとお腹を空かせたいと思うし、お腹が空くと満腹に食べたい等、誰もが常に経験していることである。考えてみれば、矛盾しているし、ばかばかしいと思うが、事実だから仕方がない。

そもそも人は、生まれたときから死に近づいていくのである。生きていながら死を背負っているわけだから、表の生と裏の死が表裏一体になって生きているのである。もちろん人だけでなく、すべての生物はいうに及ばず、万有万物は形を現すと同時に消えていく運命にあるわけだから、陰陽表裏一体にあるということになる。

地球にも昼があれば、反対側は夜であり、やがてこちらにも夜がくる。春が来れば反対側には秋が来て、こちら側にもやがて秋がくる。地球だって、春夏秋冬などとちょこちょこ変わらず、春なら春、秋なら秋のままの方が楽ちんだろうと思うが、そうしないのは陰陽の対立と依存が必要だからだろう。

雨が降ればそれが水蒸気になって天に昇ろうとし、天に昇った水蒸気は降りようとする。上にあるならそのまま居着いた方がいいだろうし、下にあるならそのままの方が楽だと思うが、天も地も依存し合い、対立しながら活動している。天地にも陰陽があるということだろう。

ミクロの世界では、電子(マイナス・陰)と陽子(陽)で原子が構成され、モノができているから、宇宙にある物質も陰陽一体ということになろう。

仏典には、「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい生死即涅槃せいしそくねはん娑婆即浄土しゃばそくじょうど仏凡本来不二ぶつぼんほんらいふじ」とあり、神の道では、「神俗本来不二」が真理であるという。また、宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もないという。(「霊界物語 第一巻」出口王仁三郎)ここでも対立する陰陽が一体となっている。

このように、宇宙にある万有万物は、陰陽で互いに対立し依存し合いながら存在し、生成消滅していると考えると、「陰陽」は宇宙の法則の一つということができるのではないだろうか。

そうだと仮定すれば、合気道は宇宙の法則に則って修練していかなければならないわけだから、「陰陽」の法則に則った稽古をしていかなければならないことになる。開祖も、「合気道は、地球修理固成を顕現する息陰陽水火の結びを実行するものだ」と言われている。

合気道での「陰陽」とは、見える方、働いている方、出る方を「陽」、見えない方、待機している方、引き込む方を「陰」としていると考える。しかもこの陰陽がバラバラでなく、表裏一体で働かなければならない。

技を遣う場合は、「陽」をしっかり働かせることも大事だが、待機している「陰」には、「陽」として働くための十分な準備をさせ、「陽」が「陰」に変わると同時に「陽」として働いてもらわなければならない。「陽」には「陰」が待機し、「陰」が「陽」になるとまた「陰」に変わるので、「陽」と「陰」は表裏一体で機能することになる。

さらに、見える体を「陽」とし、見えない心を「陰」とすれば、「陰陽」を表裏一体にし、強弱変えて、この陰陽も陰陽として、対立と依存で遣うようにしなければならないことにもなるだろう。

参考資料
「霊界物語第一巻」出口王仁三郎著
「武産合気」 植芝盛平口実