【第241回】 技と人格

合気道とは何かという問いに対する回答はいくつもあるが、そのひとつを開祖は「気育、知育、徳育、常識、(後に体育を追加)」の涵養、つまり「真善美」の探求と言われていた。

多くの人は若い時に、「人生とは何か」を考えたであろう。これも合気道と同様に多くの答えがあるようだが、私が学生時代にいろいろな本を読んだり、人の話から得たこととして、「人生とは真善美の探求」ではなかろうかという答であった。とりあえずは自分なりに解答を見つけたわけである。

この少し後で、何か体を動かすことをしたいと思った。それまではハイジャンプ(走り高跳び)や軟式テニスなどに精を出していたが、スポーツでは自分自身の能力や活動年齢に限界があると感じていたので、一生続けてできるものを探すことにした。それは日本伝来の武道であろうと考えたが、偶然にも合気道に出会いそれをはじめることになった。

合気道を始めて間もなく、ハワイから戻られた開祖のお話を聞くことになるが、その時、開祖は「合気道とは真善美の探求である」と言われたのである。これは、まさしく前述の自分が得た人生観と同じであった。ということで、合気道と自分の人生の目標は真善美の探究になり、合気道が自分の人生観と合体したことになったわけである。

開祖が言われた真善美だが、これまではただ漠然と捉えていたように思う。最近、真善美の探究には、もう少し深い意味があるのではないかと考えるようになった。
合気道は技の練磨を通して精進していくわけであるが、正面打ち一教でも片手取り四方投げでも、同じ技をやっているはずなのに、やる人によって少しずつ違うし、自分自身でも去年と今年は違っているのである。稽古を続ければ多少はうまくなるはずで、その前と違っても不思議はないだろうが、どうもそれだけではないようだ。

その違いは「人格」に関係があるといえるようである。人格者といわれるような人はそのような技を遣うし、未熟な人格の人はそれ相応の技しか使えない。また、人格が変われば技も変わるように思えるからである。そこで人格とは何かということになるわけだが、合気道的に解釈すれば、これが開祖がいわれている「真善美」ということになるのではないか。

開祖が、合気道は「真善美の探求」であるといわれたわけだが、合気道は技の練磨であるということと併せて考えれば、技イコール真善美ということになるだろう。つまり、合気道は技を練磨し、真善美を探求するのであり、技を精進するためには、真善美を精進しなければならないことになる。

簡単に言えば、技がうまくなるためには、真善美を磨いて、人格者にならなければならないということである。従って、合気道の技の練磨も大事であるが、真善美を磨くことも大事であり、真や善や美の追究が必要になる。人の話を聞いたり、本を読んだり、絵を見たり、音楽を聞いたり、自然に接したりすることが必要になってくる。というより、世の中にあるすべてのものから、真善美を学んでいかなければならない、ということであろう。

自分の不完全さを悟り、周りのものからいろいろ教えてもらい、少しでも真善美を身に取り入れていき、人格を磨く努力をしていけば、技も変わっていくはずである。人格を高めて技を高め、技を高めて人格を高める。これが真善美の探求をする合気道ということではなかろうか。