【第233回】 矛盾と相反

合気道は単調に見えるかもしれないが、一本調子ではなく、複雑なものである。矛盾であり、二律背反で、相反し合ったものともいうことができるだろう。

まず、技からして表と裏があり、表と裏でセットになっているから、表も裏も出来なければならない。技のかけ方、体の遣い方も、単純で一本調子ではうまくかからない。手足を陰陽で交互に遣っていかなければならないし、遠心力と求心力の両方を兼ね備えた力を出して遣わなければならない。力を出すだけではだめで、出すときにも引く力を兼ね備えていなければ、相手を逃がし、相手と一体となれず駄目である。

稽古の方法も、初心者と上級者(高段者)では違ってくる。初心者は稽古を一日でも多くやれば、それだけ上手くなる。この段階での上手とは、受身がとれるようになり、そして、技がなぞれるようになることである。

上級者になると、初心者のときと同じように、ただ稽古を続けるだけでは行き詰ってしまう。この段階からは技を練磨しなければならない。しかし、初心者の時とちがい、技を人は教えてくれないし、教え切れない。今までの稽古の仕方を切り替えて、自分で探求していくしかない。

上級者(高段者)の稽古法は初心者の時の稽古の延長上にあるのではなく、異質の別次元のものでなければならないはずである。稽古法でも一本調子ではなく、ある時点から稽古を方法を変えていかなければならないのである。

力についても矛盾することがいわれる。合気道は力がいらないと言われたりするが、もちろん力はあった方がいい。力があって、それをなるべく遣わないようにするのが技であり、あっても遣わないのが合気道である。だから、技がなければ、力を遣わなければならない。技を身につけるのは容易ではないが、力をつけるのは誰でも簡単にできるのだから、簡単なものからやればよい。力をつけることである。しかし、力をつけることは大事であるが、力に頼っては駄目なのである。

合気道の稽古は、相手を倒したり、抑えたりするのが目的ではないが、技を掛けたら、相手は倒れていなければならない。倒れていなければ、技は効いていないことになるから、未熟か失敗ということになる。矛盾である。この合気道における公案の答えは、相手が自ら倒れるように導くことである。

おもしろい小説や映画、感動する歌舞伎などは、悪人がいるから面白いのである。善人だけでは、気の抜けたサイダーみたいで味がない。一面だけでは薄っぺらいものになってしまい、味も、美しさも、感動もない。

合気道の技でも、一面的で単純な技(動作)では、力も出ないし、美しくもないし、相手を納得することもできないので、技は上手く掛からないことになる。技には、陰と陽、遠心力と求心力、出す引く、強弱、上下、左右等の相反する要素が含まれていなければならない。

しかし、その相反するもの、例えば、遠心力と求心力が全く均衡していたのでは、力はゼロになってしまい、何の働きもないことになる。台風の目を考えてみるとよい。どんなに強力な遠心力と求心力が働いていても、この二つの力が均衡しているので、力がゼロとなり、青空が見え、無風状態の目になるのである。

この台風の目を少し離れると、膨大な力(エネルギー)が働く。それも、目に近ければ近いほど強力である。

遠心力と求心力に的を絞れば、技をかける場合は、遠心力と求心力を有していなければならないが、遠心力と求心力を全く均衡状態にするのではなく、どちらか一方を少し強く遣えばよいということになるだろう。

もちろん、遠心力と求心力だけが相反する力ではない。出す力と引く力、左右への絞り、吸収力と発力、押す力と引く力、反転力と反反転力、上がる力と下がる力等など、恐らく無数にあるはずである。

大事なことは、技には相反するものが含まれていなければならないことである。