【第224回】 変わろうとしている世界

街で行きかう人々の顔を見ていると、笑顔でうれしそうな顔が少ないのがさびしい。うれしそうに、楽しそうに、そして満足した顔をしているのは、親と一緒にいる幼い子供たちと若いカップルばかりのようだ。この傾向は海外の先進国でもあまり変わりないようだ。

かつては三種の神器を手に入れたり、マイホームを入手したり、マイカーを購入した人はもちろんのこと、それを自分も手に入れたいものと思う人まで、だれもが目を輝かせていたものだ。日本人は、お金もちになれば幸せになれることを信じて、一生懸命働き、生きてきた。

そして世界2,3位の経済大国になったのだが、期待していたほどの幸せ感が持てないだけでなく、貧しい時代には予想もしていなかったネガティブなことや問題が次々と起こり、社会も個人も混乱している。殺人、テロ、戦争、災害などのニュースがない日はないといってよいだろう。1日100人もの自殺者(人身事故というが)があるなど、貧しかった時代は予想もできなかったことだろう。

この自殺、殺人、テロ、戦争、災害が頻繁に起こる状況を、ある人は、世界の終末であるといっているが、これはむしろ一つの過程であり、人類のたどる宿命であると考える方がよいように思う。いってみれば、溜まった"膿(うみ)"みたいなものではないだろうか。これを、開祖は「いよいよ完成の時が来たのです。今地上にあらわれている悪は、地上完成の過程として仕様のないものなのです。」(『武産合気』)と言われている。

なにもない所からビッグバンで宇宙ができ、太陽や他の星と同じような火の玉の状態から、生物が生存できる地球ができて、人類が進化し、文明が開化するに至るために溜まった"膿"で、これを出し切らなければならない。しかし、人類は、この"膿"をどう出し切ればいいのか分からず、模索しているところだといえるだろう。

そのために人類は、新たに信じられるものを模索している。これまでの宗教、哲学、社会科学(資本主義や共産主義)では人類を満足させることは出来なくなっている。新たな宗教、哲学、そして新しい考えや生き方が必要になってきたのである。

小説家の司馬遼太郎は、『司馬遼太郎が考えたこと』の中で、「人類は、もう一度出直そうとしています。もはや既成の哲学が世界把握の手段だと、信じているひとはいないでしょう。また社会科学が − たとえば経済学が − 予想の能力をうしなっているらしいことは、そのことに無知な私でもうすうす気づいています。世界は、不確定な時代に入っています。拠るべき基準がないという時代です。といって、私は厭世的にこんなことを申し上げているのではなく、じつに愉快な − 自分たち個々が裸眼でじぶんなりの世界を見ることが、あるいは見ねばならぬという − 時代になっているという、心から微笑したい気分で、このことを申しあげているのです。」(「文化と文明について」)と書いている。

ここで言おうとしていることは、世界は不確定な時代に入っており、いろいろな問題がでているが解決はできる、ただし、これまでの考えややり方ではだめである、自分の体を通して判断し、実行しなければならない、そうすればよい時代が必ずくるはずだ、と言っているのだと思う。これは、まさしく合気道の教えではないか。

開祖もまた、「共産主義も自然の理によって消滅します。」「釈迦やキリストや孔子にまかせてはおけない。もう預言の時代は過ぎた。今はそれを実行に移すだけです。」と言われているのである。

参考文献 『司馬遼太郎が考えたこと』(司馬遼太郎)