【第213回】 幽界の稽古

開祖の合気道はすばらしかった。当時もそう思ったが、今、写真やビデオを見ても、体勢が崩れたり、無理な動きなど一切ない。どれを見ても、自然で美しいと感動する。これは私一人だけではないだろうし、合気道以外の分野の方々もすばらしいと思われているはずである。その証拠に、開祖のもとには、他の武道家、軍人、華族、花柳界の綺麗どころ、宗教家、哲学者などの学者など、各界で一流の方々までが集まって教えを乞うていた。

これら異分野の一流の方々を魅了したということは、ただ強いからとか技が効くからなどということだけではないはずであり、人が求めている重要で共通の何かを示されたからだと思う。

それはすべての人に感銘を与える、人が求めたいと模索している共通項であり、また無意識の世界にあって、普段は見えない世界のものであろう。開祖はその世界を幽界と言われていたと考える。

つまり、開祖の合気道は、我々がいる顕界の次元ではなく、幽界の世界で修行をされ、我々に技を示されていたといえよう。開祖は、合気道には形はないとよく言われていたが、形は顕界の稽古であって、形のない幽界で稽古をするようにならなければならないということではないだろうか。

しかし、幽界の稽古とはどんな稽古になるのだろうか。それよりも、幽界とはどういうことなのかが分からなければならないので、試行錯誤しながら考えてみることにする。

人を本当に感動させたり、納得させるものは、見える世界の顕界(頭や手先)でつくられたり、行われたものではなく、見えない、魂(心、精神)でつくられた世界のものではないだろうか。人に感動を与えるものをつくったり、演じる人は意識の深い底(無意識)の幽界で仕事をしているので、人の無意識に働きかけることになり、人を無意識のうちに共感させ、感動させるのだと考える。

無意識の世界でつくられた素晴らしいものを、通常の顕界の目で見ても素晴らしいと感じるが、観る側も幽界の目(心)で観れば、さらにその素晴らしさが観えるはずである。

例えば、能面である。専門家でなければ、若いうちに能面を見ても、なんとなくすごいものだとは思うだろうが、その本当のすばらしさは分からないだろう。我々にはお多福で不美人に見えたり、気味悪く見えたりするものが、見る人が見れば国宝級や重要文化財などに見えるのである。

開祖はすべてのものを、我々とは違った目で見ておられたはずである。ある時、お日様を見ても眩しくないといわれていたが、その目であろう。

危険を覚悟で、お日様が眩しくなくなるように見てきた。なんとかお日様は眩しくなくなり、輪郭がはっきりした赤い球に見えるようになった。大事なことは、お日様に対抗しようなどと考えないことである。お日様に対抗しようなどして見れば、目を痛める。お日様と仲良くなり、感謝して見なければならない。キザに言えば、目で見ないで心で見るということだろう。

最近、展覧会で能面を見た。この目でお面をじっと見ていると、以前の形とか、色など表面的に見ていたときと違い、輪郭や凹凸の形が消えて、違った姿が見えてくるのである。形が消えて、お面の心が見えてくるということだろう。純粋な美しさ、悲しさ、怒りが見えてくる。これが幽玄の美ということだろう。幽玄の世界では、面の心(魂)を観ると、面が心に働きかけてくるのだろう。

また、上手い役者は、役にはまり込み、その役になりきって演じ、今ある顕界、現実とは違う別世界をつくりだす。観客はこの別世界、別次元に遊ぶために観に行くのだろう。

上手な歌手も、観客にお辞儀をして頭を上げた時には、もう別次元に入り込んでいて、現実の世界から離れた別世界にいる。その点、素人は現実世界からパッと離れられず、現実を引きずって歌ってしまう。これがプロとアマの大きな違いだろう。

よい絵画も、たとえ現実のものを描いても、別次元で描いているはずである。描いた画家は、貧乏であるとか、家庭問題があるとか、幸せとかという現実とは離れた別次元で描いているはずである。金儲けの為に描くというのは、顕界で描くことになるので、いいものが描けないことになる。

画家は時には、アルコールを飲んだり、幻覚剤などの薬を遣ったりしてしまうこともあるようだが、現実の顕界から別次元の幽界に入れず悩むのであろう。ロートレック、モジリアーニなどはその典型であろう。

いい絵を観る場合も、画家の次元に入って観ないと、本当のすばらしさは観えてこないようである。別次元に容易に入れる一つの方法は、アルコールかもしれない。個展オープニングの会場でアルコールが入った後に絵を再度観ると、少し前にしらふで観たのと違い、深みが出たり、画家の心が見えてくるようだった。もし自分の部屋によい絵でもあるとしたら、心静かにアルコールをチビチビやりながら鑑賞すれば、現実を忘れ、別世界の幽界に入り易く、その良さがもっと観えてくるかもしれない。

しかし、彼らも初めからすぐに別世界に入れたわけではないだろうから、練習して出来るようになったはずである。幽界でつくられた合気道も、顕界ではなく、幽界での稽古でなければならないはずだから、道場に入ったならば、日常の顕界のことは忘れ、別世界の幽界に入り込むよう心掛けなければならないだろう。

顕界の稽古は、見えるものに働きかけるが、幽界の合気道は心に働きかける稽古をすることであろう。持たれた手や打ってくる手を弾いたり、払いのけたり、また力で制するのではなく、相手の心と結び、心を導くようにしなければならない。その心も浅いところのものではなく、少しでも深いところのものでなければならない。深層にある意識である。すべての人が共通にもっている無意識の領域である。もっと深いところには、人だけではない、動物や植物とも共通する無意識の領域があるといわれている。

合気道で幽界に入るなら、現実を忘れ、深い意識の底の別世界に入る訓練をしなければならない。中国武術で有名な酔拳ではないのだから、アルコールを飲んで幽界に入るわけにはいかないので、訓練しなければならない。また、意識の底の幽界に入っていくためには、禊や祈りも必要になるだろう。道場の出入りや床の間への礼などの、儀式も重要である。