【第207回】 祈り

合気道は宗教ではないが、大きな意味では宗教ということも出来るだろう。しかも、これまでにない質と規模の大宗教である。地域も時間も超越したものである。国や地域や時代が違っても信じることができるし、また信じなくてもよいというところも、全く新しいものであると思う。異なる宗教を信じているもの同士が仲良く稽古をしているのだから、宗教戦争もないだろうし、すでに世界的な宗教や新興宗教に出会っている人達も信じることができるものである。言うなれば「宇宙教」とでも言えるかもしれない。

開祖は、よくお祈りをされていた。大祭や例祭はもちろんのこと、来客があった折には演武の前に道場でお祈りされ、我々稽古人を前にしてもお祈りをしてから神様のことを話して下さることもあった。

開祖は『武産合気』でも「祈りほど結構なものはない。気分のすぐれぬ時も体の具合の悪い時も祈ると、すっきりして体もよくなる。」と言われていて、よくお祈りをされていたことが窺える。

では、祈りとは何なのだろうか。前出の開祖の言葉では、祈りは気分や体が悪いのをすっきりさせてくれるとあるが、これは我々が一般にやっている「苦しい時の神頼み」ということで、祈りとは、我々の苦しみを救ってくれることでもあるようだ。

しかし、苦しみを救ってもらったり、望みを叶えてもらうために祈るだけが、祈りではないようである。開祖は、祈りとは「大神のご活躍を日々感謝するの方法である」とも言われているのである。祈りとは感謝でもあるようだ。ということは、祈りをしないということは、感謝していないということになるわけである。

世の中、祈りも感謝も無くなってきているように思えるが、世の中がますますギスギスしてきているのはその為かもしれない。社会、家族、仲間、そして自分自身に対する感謝が少なくなってきているのだろう。

自分が元気に目覚めることや、五体が動くこと、朝が来てお日様が出ること、地震も災害もなく過ごせたこと、食べ物があって食べることができること、合気道の稽古が出来ること等などに、感謝しているだろうか。

あまりにも当然と思って、感謝の念を忘れているのではないだろうか。宇宙を生成化育するもの(神)や、身体を司るもの(神)が存在するとすれば、自分たちの働きに対して感謝がないのは、いくらできた神様でも時として腹が立つはずである。私がそのような神のひとつだったら、絶対に腹を立てて、目覚めさせるためにも何か災いを授けるだろう。

祈りは人類誕生から今日まで営々と続けられてきたが、祈りとは何か、祈りは必要なのか、祈りの効用はあるのか等など、人類としてはまだまだ分かっておらず、模索中ということができるだろう。しかし、宗派や個人としては、個々にだがいろいろと分かってきているようだ。私の経験による祈りの効用を少し話してみよう。

40歳頃自主的に失業したため、金を稼ぐために伊豆七島のひとつである御蔵島に行った。島に道路を建設するための三か月契約の短期労働である。道路建設に邪魔になる木を伐採したり、岩を発破で爆破したり、路肩に30キロほどの石を10段20段と積んだりするのである。

まず、ブルドーザーが入れるように木を伐採するのだが、太い樹木はチェーンソーで切り倒し、細い木は鉈(なた)で切り倒すのである。初めは稽古のつもりで、鉈を力一杯当てて切り倒そうとしたが、鉈が木に弾き返されたり、切り倒しても切り口がギザギザで、きれいに切れてなかったりした。

ある時、弾かれた鉈で怪我をしそうになったので、さすがにこれでは危ないと思い、祈ってみたのである。「申し訳ないけど、ここに道をつくらなければならないので切らせて下さい」と祈って、切る前に三回ほど切る木を軽くたたく儀式をした。それから切ったら、スパッと切れたのである。その後は、一本一本祈りながら切っていくと、不思議と必ず上手く切れたし、お陰で怪我もなかった。そのときから、祈りには何か力があるのではないかと思うようになった。

祈りは自分自身のためにするものもあるし、他者のためや神にするものもある。内容を大きく分ければ、願いと感謝ということができよう。いろいろな祈りがあるわけだが、それでは合気道の稽古で祈りは必要なのか、必要だとしたらどんな効用が期待できるかを考えてみたい。

まず、祈りがないとすると、合気道を稽古していても、願いも感謝もないことになるわけだ。それがなくても合気道の稽古と言えないことはないし、願いも感謝もなくても稽古は続けることは出来るだろうが、それがないことによっていつか壁にぶち当たったり、稽古の意欲や興味を失うことになるのではないかと思う。もし開祖が残された合気道や武産合気に精進したいなら、稽古にも願いと感謝を伴う祈りが必要ではないかと思う。

次に、なぜ祈るのがよいのか、つまり祈りの効用である。いろいろあるだろうが、そのひとつに直感があるだろう。合気道の稽古は、技の練磨である。宇宙法則に則った技を身につけて、宇宙と一体化しようとしているはずである。しかし、技はある程度以上のものになると、誰も教えてくれないし、誰も教えられないものである。自分自身で見つけていかなければならないことになる。そのために稽古に集中し、そして祈るのである。一途な祈りにより、何か(神)が感応し、返事をしてくれるようである。これを、直感というのだろう。直感は自ら湧いてくるものではない。祈りなくして、直感は得られないようである。

祈ったから直感を得られるという保証はない。直感が得られるように祈り、稽古をしなければならないだろう。そのために大事なことは、妄念を差し挟まないで稽古をすることである。そして、真剣に願うこと、感謝することだろう。

しっかり祈れたかどうかは、稽古が終ったあと、直感が湧いてきたかどうかで分かるのではないだろうか。直感が湧かず、その稽古で何も得る処がなければ、祈りがなかったか、届かなかったということになろう。

参考文献: 『ムー』2010.4月号 「宇宙を支配する『運』の秘密」