【第203回】 相手を見ない

合気道は技の形稽古で精進していくので、より正しく、美しい形を追及することにもなる。形稽古とは、形に自分をはめ込んでいくことで、余分なものをそぎ落とし、不足分を補っていくことと言えよう。

入門早々の頃は、指導者や先輩がよく見ていてくれて、手を取り足を取って、余計な動きを取り去り、また欠けた動きを加えたりして、形を直してくれるので、指導者や先輩の言うことに従えばよかった。

しかし、だんだん指導者や先輩からの注意がなくなってくるものだ。ある程度の形ができるようになったのだから、後は自分で研究しろということだろうが、実際ある処からは教えることが難しくなるからであろう。「こうやらなければならない」、と教えようとしても、それが出来るための下地や体が出来ていなければ出来ないし、本人がその重要性に気が付き、やろうという意欲がなければ出来ないからである。結局は、自分自身で自分の形を直していかなければならず、自分主体の稽古になることになってしまう。

自分主体の稽古になると、形がこれでいいのかどうかを判断しようとして、どうしても相手との接点を見たり、相手を見てしまいがちである。自分の手がどう動くのか、相手はどう反応しているか見るためと、相手に対する恐怖心から見てしまうのだろう。

ある程度まで接点を見たり、相手を見るのは仕方ないだろうが、それを見ることによって形はよくなるものではなく、見てしまうことによって、かえって形を崩すことになるものだ。開祖も、「相手を見てはいけない。相手を見る必要はありません。姿を見る必要はありません。ものを見る必要もありません。」とよく言われていたものだ。

見るということは、それに心が居着いてしまい、動きも止まってしまうことになる。止まることは、空間的および時間的軌跡が壊れることだから、美しくないということになる。

しかし、技が美しいかどうか判断し、改善するためには自分の形(動き、姿勢、体遣い)も見なければならないはずである。「見ない」で、見なければならないというパラドックスである。合気道には禅問答のようなパラドックスがあるから面白い。

世阿弥は能の構えに三つの大事な構えがあるが、その内のひとつに「離見(りけん)」があるという。「離見」とは、「自分を離れたところから見る」ということであると、能楽師の梅若楢彦氏は言っている。(『武道の可能性を探る』(武道 2010年2月号) 
能や仕舞は武士の嗜みでもあったので、構えに関しても能の構えと武道での構えには共通性があるはずである。

合気道の相対稽古で自分の形(技と姿)を見るのは、この「離見」で見るということであろう。「離見」で見れば、自分だけでなく相手も見えてくるはずである。相手を実際に見るのは、相手との間合いに入るまでと、相手が倒れたり崩れた後である。

しかし、超能力者でもないだろうから、魂を肉体と分離して浮遊させて肉体を見ることはできないわけで、それではどうすれば「離見」で見ることができるかということになろう。

それは目で見る視覚ではなく、相手と接している部位(名人達人になれば、接することなく)の触角、感覚で「見る」ということではないだろうか。よく「見る」ためには、感覚を研ぎ澄まさなければならない。そのためには目などあけて手や相手を見ていたのでは、その感覚は鈍ってしまうことになるので、目はあけていても、ひとつのものに居着いたり、とらわれないようにしなければならない。

目で見れば、見えるものは一点とか狭い範囲であるが、「離見」の目で見れば、自分の構え、動きの全体や、相手の動きも見えてくるようである。別の自分が、自分を見、自分にこれはいいとか駄目とか、こうやった方がいいとかを語りかけてくれるのである。「離見」とは、もう一人の自分が自分を見るということということが出来るだろう。

この「離見」の修行を進めていけば、相対稽古だけでなく、自分の周りのものがどんどん見えてくるようになり、自然や宇宙なども見えてくるのではないかと夢想する。

ちなみに、能での他の二つの重要な構えは、「目前心後」(目は前側にあるが、心は後ろ側におく)、「閑心遠目」(心を静かにして遠くを見る)という。これも相手を見ないことと関係があるだろう。