【第195回】 熱と光と力

合気道の技の鍛錬によって、光と熱と力が生ずるようにならなければならないといわれるし、なるものだという。合気道の練磨をしていくと力がついてくることは誰でもわかるが、光と熱が生じるようになるということは分かりにくい。

技の練磨をして上達してくると、温かい体になっていくようである。開祖の手を握ったときも温かかったし、有川先生の手も温かかった。有川先生は手だけではなく、体全体が温かかったはずである。寒い冬でもセーターなど着られたのを見たことはない。特に足はよほど温かかったようで、食事で座敷にあがるときは何時も靴下を脱がれていた。「暑いのですか」とお聞きすると「そうだ」と言われていた。おそらく足の湧泉から相当なエネルギーが出ていたのだろう。もちろん初心者でも稽古の後は汗をかくほど体が熱くはなるが、時間が経つと元にもどってしまうので、この温かさとは異質のようだ。

稽古を続けていくと、通常のものとは違う熱が生じるようになるということは、こんなことで納得するとして、次は「光」である。正直に言って、開祖からも有川先生や他の師範からも、「光」が見えたと意識したことはない。未熟ということであろう。光は見える人には見えると言われるし、精密な光学機器などでは見えるわけだから、光は出ているはずである。

合気道が上達していって、光がどのように発せられ、それがどのように見えるのかは分からない。キリストや仏様の後背のように見えるのか、体全体から後光がさすように出るのかわからない。しかし、身近で思い当たることはある。人の輝きである。何かやり遂げた人、人気のある芸能人などは輝いて見えるが、この輝きが光ということになるのかも知れない。

開祖によれば、合気道とは宇宙の霊に体が同化し、宇宙との和合の光を得ることを修行することであると言われる。合気道では、「光」ということが一つの重要なキーワードのようだ。

科学の世界では、「光とは電磁波であり、温度を持つものはすべて、その温度に応じた光、つまり電磁波を出している」という。つまり、温かい体からはその温度に応じた光が電磁波として出ていることになる。厳密にいえば、温かい体でなくても、極端な例では冷たい死体からも光がでていることになる。ただその光が一般人や修行の未熟なものには見えないというだけであるようだ。確かにヒーラーと言われる人たちは、人から発せられる光を赤と青とか見えるというし、その色が健康状態などで変わるという。光が発っせられていると信じてよいだろう。

また人間が見える所謂、可視光線は精々波長800〜400ナノメートルで、それより長かったり短い波長の光は一般人には見えない。つまり、人が見える光など光のほんの一部ということになるから、ほとんどの光は人には見えないといえるだろう。ただ人は自分の見える光だけが光だと思っているだけなのである。 しかし、現実に光はあるわけで、開祖などは我々が見えない波長の光が見えていたわけである。

それでは、光と熱と力を生み出すためにどのように合気道の稽古をすればいいのかということになるわけだが、それも開祖は言い残されている。

等など。

ここからいえることは、光と熱と力を生じさせるキーワードは、△○□の鍛練と呼吸ではないだろうか。光と熱と力が生じるよう修行をしていかなければならない。