【第187回】 神業(かみわざ)

自分自身もそうだったが、多くの人は合気道に入門する動機の一つとして、人がびっくりするような神業を身につけることを夢見ていたのではないだろうか。触れずに敵を飛ばしたり、力持ちを指一本で制したり、敵の前から一瞬にして消えてしまったり出来るようになればいいなと、少しは考えたろう。それが、稽古をしているうちに、そのようなことをすっかり忘れてしまうか、または諦めてしまうのではないだろうか。

しかし、神業を遣われていた開祖は「合気道の鍛錬は神業の鍛錬」と言われているのだから、神業を諦めることはないだろう。鍛錬の仕方を間違えなければ、神業を遣える可能性はあるはずである。

合気道の「わざ」(業と技)は宇宙の営みを形にしたものであり、宇宙の法則に則ったものであり、宇宙と一致することが目標であると教えられている。それ故、「わざ」を身につけていくに従って、宇宙と一致していくことになるはずである。これを開祖は「合気道の鍛錬は神業の鍛錬であり、これを実践してはじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである」(合気真髄)と言われているのである。

神業とは、宇宙の姿、宇宙の働きということになるだろう。自然で無駄がなく、美しさもあり、強くもある。感銘を与え、説得力があり、愛に満ちたものであろう。また、俗世のものとは違い、場合によっては俗世の者には摩訶不思議に思えるものもあるだろう。開祖は「合気道(の「わざ」)は摩訶不思議でなければならない」とよく言われていたが、神業でなければならないということであったのだろう。

「神業」は、「神技」ではない。「神技」は人間離れした技(テクニック)という意味で、人間の行いであり、「神業」は、神様の行為、宇宙の働きと言えるのではないだろうか。従って、合気道の鍛錬は、「神技」を鍛練するのではなく、「神業」を鍛練しなければならないということである。つまり、鍛錬の対象は人間ではなく、神様、宇宙ということになるだろう。これを、武産合気というのではないか。

それでは、「神業」を遣えるようになるにはどうすればいいのだろうか。そのためには開祖は、真理の鍛錬をしなければならないと言われている。つまり、「合気道は真理の道である。合気道の鍛錬は真理の鍛錬であって、神業を生じるのである」というのである。

「神業」が生じるようにするのには、宇宙の法則である真理を追究し、鍛練していくと、宇宙の力が加わるようになり、宇宙と一致して、神業が生じることになるようである。開祖の言葉を信じ、合気道を信じ、そして自分を信じて、「神業」の鍛錬に励むことだ。