【第183回】みんな精一杯生きている

人は誰でも精一杯生きている。一所懸命働き、一所懸命稽古をし、出来る限りのことをしようとしている。

人だけではなく、犬や猫も、カラスや鳩や小鳥たちも、精一杯生きている。動物だけでなく、植物だって精一杯生きているし、生きようとしている。動物や植物が、どうでもなれとばかりに引っくり返ってなにもしないなどということは、まずない。あるとしたら、それは病気である。

動物や植物が精一杯生きているのだから、鉱物も同じであろう。水晶や鍾乳洞だけでなく、岩でも石でもそう見える。

地球上のモノすべてが一所懸命、精一杯生きていると見えてくると、太陽や月や星も精一杯頑張っていると見えてくる。そう考えれば、太陽も月も星も、精一杯頑張っている仲間ということになり、身近なものになってくる。

地球上の自然界の動植物や鉱物だけでなく、人工物でもそう見える。汽車や電車や自動車や飛行機なども、人とおなじように精一杯頑張って働いているように見える。少なくとも幼児にはそう見えるのだ。幼児が汽車や電車に、人に対するように手を振ったり、声をかけるのは、人と同じように精一杯頑張っているのを応援しているのだろう。

そう思って電車や車の走っているのを見ると、生き物のように一所懸命走っているように見えてくるから不思議である。

大人になってから、それが見えなくなってくるのは、「私(わたし)」「小我」が入ってくるからだろう。「私」が精一杯頑張っているモノを、上から見たり下から見て、「私」と比較してしまうからだろう。

みんな精一杯頑張っているが、いい結果が出たり、失敗したり、他人とは違う結果が出たりする。結果はどうしようもない。どうしようもないことなど、大事であるわけがない。結果は大事ではない。もちろん、いい結果であったり、成果が上がるに越したことはない。しかし、精一杯やっていい結果が出なかったり、いい成果が上がらなかったら、仕方がないということである。

結果はそれほど大事ではない。精一杯やるプロセスが大事なのである。そのことは、合気道の技の稽古でわかるだろう。結果だけを重視するから、自分の進歩を止めてしまうだけでなく、精一杯頑張っている相手を評価できないのである。

みんな精一杯頑張っているということが見えてくれば、稽古相手だけでなく、道場の稽古仲間、仕事仲間、社会の人々を、敵や競争相手と見なすことは出来なくなるはずである。人は汽車や電車とも仲良くなれるのだから、人間だって、動物だって、植物とも仲良くなれるはずである。道場でも街中でも、一度、みんな一所懸命、精一杯生きていることを確認してみたらいいだろう。