【第164回】 宇宙の道に身を入れる

人間は自然の産物であり、宇宙の創造物である。人間は自然の一部であり、宇宙を構成する一部である。自然を敵視したり、破壊するのは、自分たち自身に敵対したり傷つけることになろう。

自然や宇宙を対象物として見たり調査をしたりすることも、人間には必要だろう。人間はそれをまだまだよく分かってないからである。ということは、人間自身のこともわかってないことになる。

自然や宇宙を対象物として見たり調べたりするのが科学といわれる。科学は知識である。今の世の中では、この知識が評価されている。合気道は知識を求めるものではない。頭で考えて納得するものでもない。合気道は自然や宇宙を対象物として捉えるのではなく、それに和していくことである。合気道は、宇宙と和すための道といえるだろう。開祖は昭和20年、第二次世界大戦終結後に、「合気の奥義は大きく和することであり、絶対無限の宇宙の実相に通ずる道である」と喝破されるに至ったといわれる。(「合気道技法」)

宇宙に和すためには、まず宇宙に通ずる道に身を入れなければならない。対象物として見ていないで、自分を投げ出さなければならない。そのためには、まず自分が自然や宇宙の産物であることを自覚しなければならない。自分と自然や宇宙が同種、同類であるから、一体になれるのである。どこまで一体になれるかで、どこまで自分の合気道と自分自身を進歩発展させたかということになろう。

次に、自然と同類である自分の半面に隠されている自然の力を、湧出していかなければならないという。植芝吉祥丸道主は、「人間の心身は、天の摂理によって生まれた自然の産物である。この自然の産物が自然の動きに溶け込んで一体となるところに、人類永遠の進歩発展がある。合気道を学んで湧出する力は、人間の半面に隠されたこの自然の力に他ならないのであって、健全なる心身はこの自然との一致によって、動くところ必ず真の技となり偉大な力の発揮となるのである」と言われている。(「合気道技法」)

いずれにしても、自然に飛び込んで、自然と一体とならなければならないことになる。 かつて大先生(開祖)は、われわれ稽古人が稽古をしているのをご覧になると、ある時はにこにこされ、ある時は突然雷を落とされたものだ。当時は何故、突然雷を落とされたのか、私にもわからなかったが、恐らくそこにいた誰もが分らなかったと思われる。

しかし、今思うに、大先生が怒ったのは、誰かが稽古に身を入れずに、外から技を見たり、考えたりしただけで稽古をしていたからではないだろうか。体を遣わずに、ああでもない、こうでもないと講釈を述べたり、教えながら稽古をし、稽古に没頭してなかったのが気に障られたのだと考える。

私のせいで、道場中に大先生の雷が落ちたこともあった。3時の稽古が終ったあとの自由時間に、私と相棒が正面打ちの入り身投げを、ぶつからずに入身で入るためにはどうすればいいかを、理屈をいいながら稽古していたときだ。事務所(古い道場の時は道場に隣接していた)におられた大先生の目とあったが、その途端に大先生が事務所から道場に飛び出されてきて、雷を落とされたのだ。道場にはT師範と先輩数人が談笑されていたし、何組かが稽古をしていたが、皆何故怒られているのか分らなかった。

私は開祖と目があったとたんの出来事なので、私のせいで怒られたことは分かったが、怒られた理由はずっとわからなかった。当時の私と相棒は入門してまだ数カ月で、真新しい白帯をしていた初心者だったし、技が出来ないのは当然なのに、怒られるはずがないと思ったのだ。だが、あの時の大先生の目は、確かに私に怒った目であった。大先生が道場で雷を落とすときは、直接関係のないそこで一番古い稽古人に向かって怒るのだ。悪い張本人に対してではなく、そこに居合わせた最古参に怒りをぶつけるのである。恐らく監督不行き届きということだろう。この時は、没頭しない稽古をしているのを注意しなかったということであったのだろう。この私のせいでの雷に対して、T師範には今でも申し訳ないと思っている。

それとは対照的に、汗をびっしょりかきながら、くんずほぐれつでがむしゃらに取っ組み合いの稽古をしている時には、怒られたことはなかったように思う。稽古に没頭しなければならないぞという教えであり、宇宙へ通じる道の教えであったのであろう。合気道は評論家や観察者にならずに、自身が宇宙の道に身を入れなければならない。

参考文献  「合気道技法」 植芝吉祥丸