【第16回】 空を行ずる

合気道の道は、空になり、自我の想念を無くす修行であるといわれる。禅を世界に紹介した鈴木大拙であったと思うが、開祖の合気道を見て「合気道は動く禅である」と言ったという。禅の道も自分を空にし、自我の想念を無くすということなのだろう。しかし、これはなかなか難しいし、恐らく完全に空となり、自我の想念を無くすのは、ふつうの人間であればほとんど不可能に近い。ただ出来るのは、出来るだけ空に近づき、自我の想念を少しでも無くすことであろう。

稽古では相手があるので、相手に左右されたり、教えたり、注文をつけたりで、自分を空にするのは容易でない。人間は煩悩の塊りみたいなものなので、ちょっと油断をするといろいろな煩悩がすぐに頭をもたげてくる。
スポーツとの一番大きな違いはここにあるだろう。スポーツは相手や対戦者に勝たなければならないわけだから、極端にいうと勝つという欲望が強くなければならないわけである。

それでは稽古で空になるためにはどうすればいいのか。一言で言えば、自分の精進だけを目指し、一所懸命稽古することである。
かって故有川師範と何度か、合気道の演武大会をご一緒させて頂いた。ある先生の演武が良かったように思えたので、「今の演武は良かったのではないでしょうか」、と言うと、全然駄目だし前より悪くなっているとのご意見だった。先生の判定がどうなのかは最初は分からなかったが、それぞれの演武に対する先生の拍手の数が違うのに気付いて見ているうちに理由がわかった。先生の拍手はしたり、しなかったりで、多い場合でも4〜5拍である。カッコをつけて観衆に見せようと演武するのが一番お嫌いなようであり、自分への挑戦を目的に演武する人、つまり真に一所懸命演武した人に高い評価を与えていたのであった。こうなると、上手い下手、古い新しい、大人子供など全然関係ないわけである。

大人になって、稽古歴も長くなると他人を意識するようになるものだ。空になり、自我の想念を無くすのはますます難しくなる。しかし、真の合気道の道を行くには、これはマストだろう。