【第157回】 誤解と錯覚

人は何事も自分に都合のいいように解釈するという習性があるようだ。それによって自分の安心を保とうとするのであろう。しかし、その解釈は誤解であり錯角である場合が多いものだ。

ものごとすべてには表裏があり、日の当たるところと日の当たらない陰になる部分がある。人は自分に都合のいい日の当たる表だけを見がちだが、裏には必ず陰の面があるのである。表裏、陰陽の良し悪しは簡単には判断できないものである。例えば世の中で起こる出来事、また事件や犯罪でさえ善悪の判断は難しい。だから裁判制度があるのだ。

また、善にも悪が隠れているし、悪にも善が付いている。完全な善や完全な悪など存在しない。それは歴史が証明していることだろう。表裏の両面でなく、片面だけしか見なければ、誤解と錯覚をしてしまうことになる。

合気道でも、この誤解と錯覚が多いようである。開祖はすばらしい技と言葉を残されたが、合気道に関して具体的な説明をほとんど残されていないので、残された一部の言葉が、聞いたり読んだ人の都合のいいように解釈されてしまい、誤解と錯覚を生んでいるのではないかと考える。

その典型的な例の一つは、「合気道には力がいらない」ということであろう。常識で考えても分かる通り、どんなに合気道の技が優れているとしても、幼児のように力のないものが力士のように力と体力のある相手に適うわけがない。開祖が言われている「合気道には力がいらない」「米糠三合の力があればいい」などと言われるのは、力がなくてもいいということではない。力の遣い方をいわれているのである。余計な力を遣わずに米糠三合持つ力ほどの力で技が出来るようになりなさい、ということである。

力が強いのは悪だなどは言っていない。実際、ある程度の力がなければ、力を加減することなどできるものではない。これは、力は強ければ強いほどよいが、遣うのは出来るだけ少なくしろということである。つまり、力をつける稽古をして、技をかけるときには少しでも力を遣わないように稽古しなければならない、ということになる。

次に、「敵をつくらない」「相手と争わない」「相手を活かさなければならない」等がある。これは、稽古相手とは和気あいあいとやりながら楽しみなさい、ということではない。合気道は武道であるから、生死をかけるような厳しさがなければならない。「敵をつくらない」「相手と争わない」「相手を活かさなければならない」と思いつつやっても、結局は真剣に稽古しようとすると、逆の結果になるものだ。つまり、敵をつくり、相手と争って、相手を押しつぶしたり怪我させたりと、活かさずに殺してしまうことになりがちである。

「敵をつくらない」「相手と争わない」「相手を活かさなければならない」ようにするためには、まず相手を「殺」さなければならない。「殺す」ということは、相手と一体になることである。一体になれば相手はもはや敵ではなく、自分の一部となる。自分の思う通りに動けるわけだから、争う必要はないし、相手を殺しているのだから、最早殺す必要もなく、あとは相手を活かすことだけを考えればよいことになる。活かすために活かす面だけをやっても、上手くいかない。まず、その裏にある「殺し」をしなければ何も始まらない。ここが武道としての合気道の厳しさである。

その他の例を思いつくままにあげてみると、「合気道に形がない」というのがある。この形(かたち)とは、技の型とは違うのである。多くの人はこれを都合のよいように解釈して、技(技の型)を好きなように遣おうとしたり、技を軽視したりしている。「合気道に形がない」ということは、形を大事にしなくてもよいといっているわけではない。何故ならば、合気の道は技を通してしか進めないからである。いみじくも故有川師範がかつて言われている。「技から道、道から神っていう言葉がある。技を極めることによって道につながるし、道を極めることによって神につながる。技は手段じゃないという考えです。」

「合気道に形がない」と開祖が言われた主旨は、合気道トータルの形ということであろう。決った姿形はないし、宇宙の運行とともに転変万化しているということだろう。従って、自分の今の技に固守せずに、どんどん変わっていかなければならないことになる。かつての開祖ご自身の技も、時代や年代と共に大きく変わられていったものである。

また、「ぶつかってぶつからない」という禅問答のような言葉もある。今の稽古人は、ぶつからないようにと相手から逃げて技をかけている。これではぶつからないようにして、結局はぶつかってしまうことになる。ぶつからないためには、まず、相手にぶつからなければならない。ぶつかるのは「気」(気持ち、心)と体である。これが相手の中心にぶつかると、後は捌いたり動いたりすることができるようになり、ぶつからないで済むことになるのである。

この他にも数多く合気道で言われていることが誤解されているようである。合気道で言われる言葉を自分に都合よく解釈するのではなく、本当に自分のためになるように研究したいものである。