【第154回】 「空の気」からの「解脱」

合気道の修行は、まずは何と言っても技を極めることから始めなければならない。技を極めてはじめて、道を極めることができると言われるからである。そして道を極めると「神」が見えると言うのである。

合気道の技は無限にあるだろう。何故なら、合気道は武道であり、スポーツと違って、これをやっては駄目だとか、あれは違反であるなどという制限はないので、取り(攻撃法)や掛け(攻撃人数)とその組み合わせが無限にあるからである。しかし、基本技といわれるものはそう多くない。合気道は技の数を覚えるよりも、基本技を繰り返し稽古して、どんどん深く掘り下げ、練磨していくものである。

合気道の技の稽古は相対(あいたい)稽古で、相手を倒したり抑えたりして練磨していく。相手を倒すことが合気道の稽古の目標ではないが、技を遣い終わったときに相手が倒れていなければ、技の遣いかたが不味いことになる。倒れていなければ失敗である。倒れていないのは、技の遣い方、そこまでのプロセスが誤っていたか、まだ力不足か下手であることになる。相手が「真から倒れる」まで、更に修練しなければならない

「相手が真から倒れる」とは、相手は倒れざるを得ないようになり、自ら倒れるか、摩訶不思議のうちに倒されてしまうということである。しかし、相手が「真から倒れる」ようにするのは容易ではない。だから、「真から倒れる」ように、地道に稽古に励まなければならない。地道に稽古をするということは、やるべきことを一つづつ自得して積み重ねていくことである。

やるべきことの一つに、「空の気」を解脱し、「真空の気」に結ぶということがある。「空の気」とは物の引力、という。開祖はこれを「引力を与える縄」と言われている。また、開祖は、「真空の気」とは「宇宙に充満している。宇宙の万物を生み出す根元」と言われている。つまり、宇宙に充満しているエネルギー(ダークエネルギーとダークマター)のことだろう。

開祖は、「自由はこの重い『空の気』を解脱せねばならない。これを解脱して真空の気に結べば技がでる。」といわれているのである。

「空の気」を解脱し、「真空の気」に結ぶことができないと上手く行かない典型的な基本技は、正面打ち入身投げである。「空の気」を解脱するためには、まず「空の気」を感じなければならない。そのためにはまず心を円く体三面に開き、心と体が力まず傾かず「天の浮橋」に立たなければならない。そうすると、心は澄み切り、体はずっしりと重くなる。体は地と結ぶと同時に、相手の中心に身を置くことによって、相手の重力を感じ相手と結ぶ。自分の体は相手と引力で結ばれ、一つになり、相手の重力を感じ、相手を感じることになる。これが「空の気」である「引力を与える縄」を感じるということだろう。

相手を感じるということは、相手の動きも感じるということである。ここで相手が手刀で面を打ってくるのを、自分の芯でその重力(空の気)を感じたら、体を開き足を進めて相手の重力(「引力を与える縄」)から解脱し入身する。これが「空の気」の解脱であろう。

相手の引力から体と心を解脱するためにはそれより強力なものが必要である。それを開祖が「真空の気」と言われているものだろう。

「空の気」を解脱し、「真空の気」と結ぶために、開祖は、「解脱するには心の持ちようが問題となってきます。この心が己の自由にならねば死んだも同然であります。弓を気一杯に引っ張ると同じに、真空の気を一杯に五体に吸い込み清らかならば真空の気がいちはやく五体の細胞より入って五臓六腑に食い入り、光と愛と想になって、技と力を生み・・・」と言われている。

手刀でなく、木刀で切り下ろしてきても、同じである。得物に対する場合は、徒手よりも素早い身のこなしが必要である。得物に対して入身が出来れば、「真空の気」と結びついたと言えるのではないか。開祖は、「身の軽さ、早業は真空の気をもってせねばならない。」といわれているからである。

道歌に「真空の空のむすびのなかりせば 合気の道は知るよしもなし」(『武産合気』)とある。空の気と真空の気を自覚し、空の気からの解脱と真空の気との結びを、技と業を通して自得していかなければならないだろう。

しかし「『真空の気』と結ぶ」は、まだ明確ではない。「真空の気」は「空の気」よりも強烈であると思うが、感じるのは難しい。まだまだ研究する必要があるようだ。

参考文献:
 『合気真髄』
 『武産合気』