【第146回】 過去現在未来(過現未)

ひとは誰でも、現在にだけではなく、未来にも過去にも生きているといえるだろう。一般には、今現在しか生きることが出来ないし、見ることも、何かをすることもできないと考えられているようである。だが、現在の今は即過去に変わっていき、さらに未来へと進んでいってしまうのだから、現在というのはないとも言える。従って、現在は既に過去であり、未来であるとも言えるだろう。だから、過去と現在は繋がっているし、現在は未来に繋がっているのである。

我々は、現在と過去とに同居している。同時に過去にも生きているのである。「目に見えるもの、耳に聞こえるものは既にすべて過去のものである。物を見るときには必ず過去の姿を見ることになる。光がある距離を進むには必ず時間がかかるからである。隣にいる人も僅かだが過去の物である。30センチメートル離れていれば10億分の1秒過去となるという。」(「Newton 」2008.7月号より) もちろん、耳に聞こえる音も過去のものである。

過去や現在は、未来にも繋がっている。人は未来をイメージして今を生きている。もし未来がないとしたら、人は生きることができないだろう。もしxxx年xx日に地球も人類も必ず消滅するということになれば、現在も生きることはできなくなるだろう。未来があるから、現在を一生懸命に生きようとするのであろう。そして、出来れば、今の自分、業績、果たした使命を、未来に繋げ、役立てたいと思っているのではないか。

合気道などの「稽古」とは、「いにしえをみる」ことである。古(いにしえ)の業と技、それに思想、哲学を学び、正確に身につけることである。まずは現在を過去に結びつけなければならない。そして次に、過去と結びついた現在を未来に結びつけなければならない。未来に結びつかないものは、消えてなくなることになる。過去現在未来を胎蔵したものだけが未来でも評価され、残って続くことになる。

修練する合気道も、わざ(技と業)にしろ、思想や哲学にしろ、過去現在未来を胎蔵していなければならないことになる。過去の先人の教えを踏まえ、未来に続く道に適ったものでなければならない。過去と結びつかず、未来にも結びつかないものは「我流」といって、現在とその場だけにしか通用しない、限られた時空のものでしかない。

開祖は、「人間の生命も宇宙と同じく、始めなく終わりなく、過現未を一貫して生き通しているのであります。生き通しの生命を腹中に胎蔵し、宇宙も悉く腹中に胎蔵して、自分が宇宙となるのであります。自分が宇宙と一体となるのであります。宇宙と一体となった自分の振る舞いが、宇宙に輝やかに鳴りひびいてゆくのであります。こういう見地で合気同人は進んでゆかなければなりません。」(「合気真髄」)と言われている。

過去現在未来(過現未)を腹中に胎蔵して、自分が宇宙と一体となって振舞わなければならないが、過現未を胎蔵するということは、時間的な次元を超越するということである。どの時代の人からも評価を受けているといえるピカソやゴッホ、尾形光琳、歌麿の絵や版画、モーツアルトやバッハなどの音楽などは、過現未を胎蔵し、そして時間と空間を超越したものということができるだろう。

合気道の開祖、植芝盛平翁の創られた合気道、その技と業も、過現未を胎蔵していると言える。開祖の前に相手が立てば、開祖は相手が倒れている姿が見えたという。未来が見え、未来に繋がっていたわけである。合気道も過現未の時間的な次元を包括し、また国や民族を超えて、空間的次元も超越したものであり、ゴッホの絵、モーツアルトの音楽と同様、永遠に人類の遺産として残り続けるだけでなく、「宇宙に輝やかに鳴りひびいてゆく」ことになるはずである。

開祖は我々合気同人に、過現未を一貫して生き通し、その生命を腹中に胎蔵し、宇宙と一体となって、宇宙に輝やかに鳴りひびくよう、合気道の修行に励むことを期待されているのである。合気之道、心して励もうではないか。