【第143回】 何故愛さなければならないのか

「汝の敵を愛せよ」「生き物を大切に」「草木を大切に」「地球にやさしく」などという言葉はよく耳にする。合気道でも、敵をつくってはいけない、敵を取り込んでしまわなければならないといわれる。合気道が上達するためには、このことを理解する必要があるようだ。

合気道の相対稽古では、互いに技を掛け合い、受けを取り合うが、中には乱暴に攻撃してきたり、受けを素直に取らない相手もいる。すると、ともすれば、稽古の相手を敵とか勝負の相手などと見ることもある。そういう気持ちで稽古をすると、相手とは結ばなければならないのに、弾き返してしまって、二人がバラバラに動き、争いになってしまう。合気道は、相手を自由に動かすようにならなければならない。相手をくっつけてしまい、二人が一人となって動かなければならない。その為には「争う心」ではなく、「愛」がなければならないであろう。

人は皆、大いなる母である地球から生まれ、人も地球も太陽も、宇宙のものすべてはポチと言われる一元の神から出来た兄弟(姉妹)ということができる。人種が違い、国が違い、貧富の差などなど違っていても、元が同じで、同じ物質で出来ている「きょうだい」である。また、稽古相手は偶然というより奇跡的に出会った同胞であるわけで、その奇跡的ともいえる生存と、偶然的に出会って稽古をする相手に感謝をしなければならないだろう。中には、腹の立つ相手もいるだろうが、家族兄弟でもいろいろあるのだから、出来の悪い兄弟だと思えば愛しくなり、そして「愛」が生まれてくるはずだ。

この「愛」が、同じ物質で構成されている兄弟の皮膚や体に働きかけると、相手は自分の意識とは別な本能的な反応をするので、意識では離れようとしても手がくっ付いてしまい、こちらの思うように動いてくれる。面白いのは、初心者でもたまにくっ付かれて自由にされることがある。どうも強い弱いとかは関係なく、「愛」でやるかどうかが大事であるようだ。

「愛」とは、相手を思うこと、つまり相手の立場でものを考え、実行することとも言えるだろう。地球上のすべてを生み出してくれた人類の大いなる母を、自分を生んでくれた母と同様に大事にしなければならないのは当然であろう。この母である地球から見れば、人も動物も植物などすべての生き物も、砂、土、鉱物などの無生物(人間が名づけただけで、多分生きている)も、自分の子供である。すると、我々人間にとっては、人間だけではなく、動植物の生き物も無生物も兄弟ということになるだろう。

これまでの人類や生物の歴史は、強いものが弱いものを淘汰して生き残るというパワーの文明であったといえよう。他人は競争相手、動植物は人間に仕えるもので、人間が自由にしていいものと考えられていた。このような時代をそろそろ終わらせなければならない。合気道はこの競争社会の物質文明から、物質をコントロールする精神の社会に変えなければならないと教えている。

キーワードは、「愛」である。まずは、稽古相手を「兄弟」と思い、「愛の稽古」をしなければならない。これができれば道場外の人たちも兄弟に見えてくるはずだ。日本人も外国人もない。動植物も愛おしくなるだろう。

少しでもよい社会、よい世界が出来るよう、大いなる「母」が満足してくれるような地球になるよう、兄弟皆仲良くいきたいものである。

この愛の思想を説き、それを身につける稽古をし、よりよい世界をつくり、宇宙生成化育のお手伝いをしようとするものとしては、身近では合気道をおいてまだ他にないように思われる。