【第124回】 「合気道に形はない」とは

大先生(植芝盛平翁)は、よく「合気道に形はない」と言われていたし、大先生がお書きになった合気道新聞にも「合気道には形はない」と書かれている。それ故、初めの頃は、合気道ではある程度の制限があるものの、技は各自が自由に使ってよく、相手を倒しさえすればいいのだろうと考えたものだ。

実際、開祖の演武はまさしく形に捉われない自由なものであったし、他の師範や先輩たちの演武なども、各自の個性にあった自由なものであり、誰一人、同じものがなかったので、これが「合気道には形がない」ということかと思った。しかしながら、道場で大先生の演武の真似をした稽古を先輩などがしているのを、大先生に見つかると、大先生から大目玉を頂いたものだ。合気道には形がないはずだから、自由にやり、尚且つ大先生の手本に従おうとしたはずなのに、何故、叱られるのか、当時はよく分からなかった。

合気道の道場での相対稽古は、合気道の技の形を繰り返し々々稽古していくものである。40年以上も合気道を続けていれば、四方投げなどの基本技は数万回はやったはずだ。しかしながら、未だかって完璧にできたと思ったこともなければ、完璧にできるとも思えない。ただひたすら完璧を目指して、それに少しでも近づくべく稽古を続けるだけである。完璧に行き着けないことは分かっていて、それでも挑戦するのである。悲劇であり、またこれがロマンである。

「合気道に形はない」のなら、合気道の技の形への挑戦は意味がないと思うかもしれないが、それは間違いだ。「合気道に形はない」というのは、大先生のように、顕幽神三界に出入りされるような達人が到達している合気道であって、我々若輩の合気道を指しているのではない。大先生は、「合気道には形はありません。魂の世界<ス>の一字によって禊に基づいてやるのです。」「合気道は形のない世界で和合しなければだめです。形を出してからではおそいのです。」と、次元の違うところで「合気道に形はない」ことを言われているのである。(「合気真髄」)

我々若輩は、まず大先生が到達したレベルを目指して修行を続けなければならない。合気道で、そのレベルに近づくことができるのは、技の形の稽古を通してしかない。「合気道は力がいらない」ということと同じで、言葉の上っ面だけを取って、錯覚しないようにしなければならない。

合気道の技は、宇宙の営みを形にしたものといわれる。つまり合気道の技は、宇宙の法則に則っていることになるので、合気道の技の形をしっかりやることは、宇宙の営みに合致することになる。合気道の形を通して、自分の体を宇宙につくりあげていくことになるのである。

究極は「合気道に形はない」とならなければならないが、そのためには形を大事にしなければならない。

参考文献   『合気真髄』植芝吉祥丸監修  八幡書店