【第123回】 道を行く

合気道は、ひとつの道である。合気道の他にも、柔道、剣道、華道、茶道等々いろいろ「道」とつくものがある。名称が違うのだから、当然やっていることは違う。すべての「道」は、それぞれの「形」の稽古を通して、その道を進んでおり、道は各々違うわけだが、どうもすべての道はどこかでひとつに繋がっているようだ。もしそこで繋がらない道があるとしたら、それは途中で横道に逸れてしまった道か、邪道に陥ってしまったのだろう。

道には、幅がある。幅があるということは、ある程度の許容範囲があるということである。その道をある程度自由に行けるということである。もし「道」が糸のように細くて、許容範囲がないとなれば、誰もが全く同じことをロボットのようにやっていかなければならないことになって、「道」を行く面白さも、発展性もないことになるだろう。しかし、この許容範囲に甘えすぎると、その道の幅を出て進むことになり、溝に落っこちるか、道を見失ってさ迷うか、横道や行き止まりの道「邪道」に入ることになる。

道は、過去と未来に繋がっている。一人の人間が行く道は、その一部である。精々100年足らずの行程の距離である。過去からのモノを引き継ぎ、運び、そして次の世代に渡すのである。これが人の役割であり、天から授かった使命なのだろう。それ故、まずは先人のものをしっかりと受け継がなければならない。合気道でも、先人がつくりあげた「わざ」や思想・哲学をしっかりと、しかも間違って引き継がないように、細心の注意を払わなければならない。それが稽古であり、「いにしえを みる」である。そして、それを自得し、後進に渡してやらなければならない。現在を過去に繋げ、さらに未来に繋げていくのである。

過去と現在と未来が繋がれば、それが「道」である。合気道の「道」に乗れば、今の合気道に過去のものが繋がってくる。当時は理解するのに困難だった開祖の話、当時は意味も分からずやっていたこと、見たり聞いたりしたこと等々今の自分の合気道と繋がってくる。すると今度は「道」の先、行くべき未来の方向が見えてくる。合気の「道」はどんどん広がっていくのである。

一般の道に起点と終点があるように、合気の「道」にも起点があり、目的地があるはずである。合気の道での起点は、開祖のお話から、宇宙を創造した一元のカミということになるだろう。従って、合気の道は、宇宙ができる以前の大虚空のときまで遡らなければならないことになる。目的地は、宇宙が創造しようとしている「何か偉大なもの」であるといわれる。この宇宙が創造しようとしている「何か偉大なもの」に向かって、「道」は進んでいるようである。

合気道は、何かを創造しようとしている宇宙の営みを現した技の形を稽古していくものであるから、宇宙の法則に反することは道に外れることになる。宇宙、一元のカミは、何かを創造すべく宇宙をつくったというのである。とすると、宇宙の意志、宇宙の法則と結びついた道を行かなければならないことになる。

真理であるかどうか、正しいかどうか、美しいかどうか等の判断は、宇宙の法則によることになるだろう。合気道は真善美の追求をする道ともいわれているが、人間社会だけに通用するものではなく、宇宙に照らして恥ずかしくない真善美でなければならないことになる。

宇宙の法則に則った真善美の探求が道ということになれば、他の「道」である柔道、剣道、華道、茶道等々の目的地も同じということになり、この一点で全ての道は繋がることになるはずである。どの「道」を進んでも、目的とするところは最後は同じになる。大事なことは、それぞれの「道」の形の稽古を通して、どこまでその目的地に近づくことができるかということだろう。それは、それぞれの「道」によるものではなく、それぞれの道を進む人による。