【第120回】 合気道は武道の基

合気道は武道であるが、真の武道ということが出来る。何故ならば、いかなる攻撃にも対処できるように出来ているからである。手でつかまれるだけでなく、突いてきたり、蹴ってくるものにも対処できるだけでなく、剣や杖にも対処できるようにできている。つまり柔術、柔道、空手、剣、杖などの稽古も一緒にやっているようなものである。「合気道には形はない」といわれるのは、このことも指しているのだろう。

開祖は、「合気道は武道の基であり、剣を持てば合気剣、杖を持てば合気杖にならなければならない」とよく言われていた。しかし剣や杖を教えて下さったことはなかっただけでなく、我々稽古人が道場で木刀や杖で稽古をしているのを見つかると、大目玉をもらったものである。まずは体術が基本で体術をしっかりやれ、ということだったようだ。

武道である合気道には、条件や約束はない。いかなることにも対処できなければならないわけだから、相手が木刀や棒で来たとしても、合気道の「わざ」で対処できなければならない。そのためには、まず自分自身が剣や杖を使いこなせなければならない。剣や杖が自在に使えなければ、その攻撃に対処するのは不可能である。昇段試験には武器取りがあり、剣や杖の攻撃を捌かなければならないが、本来ならよほど剣や杖を振り込まんでいなければ、できるものではないだろう。

しかし、合気道には攻撃技というものがないことになっているので、剣で切ったり、杖で突いたりすることは教えない。ここに矛盾があるのだが、ここが合気道の面白いところである。この面白さと矛盾に気づき、剣や杖の稽古を自習したものだけが、武器取りができるようになるのである。

武器だけではなく、体術でも、柔道や空手を想定して、相手の手なり道衣なりを掴む場合はしっかり気を入れて持ち、また技を掛けるときには、いつでも当身がでるように心掛けて稽古するようにしなければならない。その各々の武道を専門に修行している人たちには適わないまでも、他の分野の武道もある程度出来るようになるように努めなければならないだろう。

剣や杖の稽古をするといって、何々流の剣道の形をやったり、杖道の形をやっている人も多いようだが、これは合気道の稽古にはならない。剣や杖を振ることによって、合気の体をつくり、息遣いを覚え、拍子や「わざ」を磨いていくのである。合気の「わざ」や動きの中で杖や剣が遣えるようになれば、それが合気杖、合気剣になるわけである。従って、剣道や杖道の形を覚えてもあまり意味がないことになる。

人はあれもこれも出来ないし、たとえ出来たとしても、底の浅いものしか得られないだろう。一つのことに集中して、深く掘り下げていった方がいいようだ。武道で言えば、これが道ということであろう。合気道を志すものは、この合気の道を進めばいい。隣の道はよく見えるかも知れないが、自分の道を信じて精進すべきである。

剣が上手く振りたいからといって、隣の剣の道に行ったりする者もいるが、剣や杖が上手く振れないのは、合気道が悪いのではなく、自分のせいである。合気道は、剣や杖が使えるように導いている。また、素手で突いたり捌いたりすることも出来るように出来ている。かつては、柔道、剣道、空手、相撲などの猛者が、自分たちの道だけでは飽き足らず、合気道の道に入ってきた。合気道には、武道の基になるものがあるから、他の武道関係者も合気道に惹かれたのであろう。「合気道は武道の基」を信じて、修練を続けよう。