【第116回】 目に見えないものを見る

今の世の中は、物質文明社会といえよう。世の中が、物質を求めて動いている。モノ、そして、それを手に入れる道具であるお金があれば、満足する社会である。モノとは、見えるものである。見えるものを見せびらかして、満足している社会ともいえよう。自分のアイデンティティを服装、装飾品、家や車で表そうとする。モノを沢山持っていれば、自分の方が上だと考え、他人に負けないようにしたいと思うのである。個人も国も同じである。そこで、競争が起り、争いが起る。

確かに、モノは大事である。モノがなければ、生きてはいけない。衣食足りて礼節を知るとも云われるように、衣食が足りなければ、心を豊かにするのも難しいだろう。モノを否定することはできない。

合気道を修行する場合、まず肉体的に機能する体でなければならない。体が動かなければ、稽古も出来ない。また、体がしっかりしていれば、いい稽古ができるはずである。人はそう思っていい体をつくろうとし、筋トレをしたり、鉄棒を振ったりして筋肉をつける。

しかし、往々にしてその筋肉もりもりの体に満足したり、頼ってしまいがちである。稽古相手もその筋肉の付いた体を見て、これは敵わないと思ってしまう。

稽古を続けていると分かることだが、腕が太くても、太い分だけ力が強いというわけでもなく、体が大きいからといって、その分強いわけでもないのである。腕が細くとも、外見からは想像を絶する力のある人もいる。勿論、腕が太くて、凄いパワーを持つ人もいる。目で見た外見から判断するのは、時として誤りであり、危険である。だが、人はどうしても目に見えるものに影響されてしまいがちである。

開祖はそれを戒めて、次のように言われている。「すべてのものを目にみえる世界ばかり追うといけません。それはいつまでたっても争いが絶えないことになるからです。目にみえざる世界を明らかにして、この世に和合をもたらす。それこそ真の武道の完成であります。」(「合気真髄」)

開祖はよく「相手を(目で)見てはいけない」と言われていたが、これは目で見ると迷いが生じ、正しい判断が出来ず、いい"仕事"が出来ないということだろう。では、目で見ないのなら、何で"見る"のかということになる。稽古では相手がいるわけだから、相手を知覚するのに、目で見ないとしたらどうすればいいかということである。

まずは、体の各部分で敏感に感じることであろう。技を掛ける場合、相手の反応を感じることも大事だが、そのためには自分自身を感じる必要があろう。筋肉の動き、筋肉と骨の連動、呼吸と筋肉や骨の関係、さらに自分の筋肉や動きに対する相手の反応等々である。これは、目では見えないものである。見えるのは、そのプロセスの結果としての相手が崩れる姿である。筋肉の動きは、相手にも見えない。何故ならば、働いている筋肉とは、外から見えない深層筋が働いているからである。相手もこの深層筋の動きを知るには、目ではなく、感じるしかない。

体の各部分で感じる以外に、相手を"見る"ためには、体全体を受信機として感じることであろう。稽古でも稽古相手の前に立つと、目で見ず、まだ接触しなくとも、威圧されて気おくれしたり、またその逆の気持ちになったりする。これは、相手を体で感じているということになる。街中などで、人とすれ違っても威圧感を感じることがあるが、これも何かを体で感じているはずである。これを波動という人もいる。修行すればするほど波動が優位になるし、人はそれを感じるのだと言う。

名人、達人のそばにいると何も出来なくなってしまうのは、その波動が自分のものより優位にあって、波動の法則で、劣位の波動は優位な波動に吸収されてしまう、それで何もできなくなるのだろう。かって開祖の居られる場にいると、誰もが気を吸い取られたようになってしまったのは、開祖の超優位な波動のせいだったのではないか。

合気道は宇宙のひびき、山彦の道といわれる。宇宙のひびきを「わざ」に表していくものであるという。宇宙のひびきは体で感じるもので、目では見えないものだ。バリ島の楽器のガムランの音色は人を魅了するが、この楽器は人が聴くことのできる周波数の領域を超える、人には聞こえない音を出している。聞こえなくとも、人はその音色に快感を覚える。耳には聞こえないが、体には聞こえているのである。

最近、真空管アンプから流れる音楽が見直されている。今はほとんどがデジタル化し音域周波数が決っていて、硬く、角張った、平たい音に聞こえる。真空管アンプはアナログであるので、ガムランのように耳では聞こえないが、体に聞こえる音が出るから、自由で自然で柔らかく、丸みがあり、それ故に聞きやすく、快適に感じるのではないだろうか。

合気道では、この体で感じることが重要であるようだ。体が敏感になれば、だんだん宇宙のひびきを感じることができるようになるだろう。目に頼りすぎたり、耳に頼りすぎると、体で感じることが難くなるわけだ。

参考文献  「合気真髄」 植芝吉祥丸著